論文の長さに関して心に残っている言葉。

あれは高校の生物の授業だったと思う。

DNAの二重螺旋構造を発見した歴史的論文のコピーを先生が配ってくれた。歴史的な論文とのことだったが、なぜか2枚のプリントが配られただけだった。「実際の論文はどうせ膨大なんだろうけど、いま配られたのは要約なんだろうな」と思った。

あとになって、その歴史的論文は、本当に2ページしかなかったことを知った。

・ ・ ・

小、中、高、と勉強のレベルが上がるにつれて教科書は難しくなっていったし、例えば国語の文章問題を考えてもどんどんその分量は増えていった。ということは、「論文」なんていう学問の一番ちゃんとした文章はきっとすごく難解で膨大なんだろうと思っていた。

ただ、大学2年生の時には「どうやらそうとも限らないな」と思うようになった。というのも学部2年生で入った研究会で、初めてまともに読んだ論文が4ページしかなかったが、その論文はすごく感動的で素晴らしいものだった。核となるアイディアがあって、それをサポートするシンプルな説明がある。こういう論文に憧れた。

一方で、60ページとか100ページとかの巨大な論文が存在することも知るようになっていった。そういったタイプの素晴らしい論文も存在していて(要は自分がステレオタイプ的に考えていた”論文”もちゃんと存在していて)、それらは単に長いだけではなく緻密で構成的な作品のようになっていることも段々と理解するようになってきた。「シンプルで感動的なアイディアを簡潔に表現する論文には憧れるけど、緻密で構成的な巨大な論文も書けるようにならないとダメなのかな」。

自分が目指したらいいのはシンプルな論文の方だとは思うけど、本当にそれでいいのかな。こういう悩みを感じている時期があったが、その悩みは大学院1年目の夏休みにある言葉に出会って吹き飛んだ。

経済学者Ruibinstein先生の言葉(モットー):

I have not seen any paper in Economics which deserves more than 15 pages (probably even 10).
 
訳:私は経済学の論文で15ページ以上に値するものを見たことがない(たぶん10ページですら)。

これを見たときに、Rubinstein先生がそう言っているんだから、もうそりゃそうだな。自分はそれを目指せばいいやと思いました。素晴らしい論文をいくつも残していて、これまでいくつもの歴史的な論文を読んできたRubinstein先生がこうおっしゃっているなら、シンプルな論文に憧れている自分はこの方向で行って大丈夫だろうと背中を押されました。

Rubinstein先生の学生向けのアドバイス集にも関連した記述があったので、簡略化しながら引用しておきます。*1 Qは学生の質問とされるものです。

Q:How long should my paper be?

A:If you have a really good idea, my advice is to limit yourself to 15 pages. I have not seen any paper in economics which deserved more than that. Focus on new ideas, shorten proofs to the bare minimum, avoid stupid extensions, and write elegantly!

どうしても心配になると論文を長くしようと思ってしまいがちだけど、そんなときはこの言葉を思い出すようにしています。やっぱりいいアイディアをちゃんと思いついてそれで勝負するのはかっこいいよなぁ。*2

Fin.

 

*1:"10 Q&A: Experienced Advice for "Lost" Graduate Students in Economics" のQ3から引用。

*2:とはいえ、いつか長くて構成的な知的生産にもチャレンジしてみたいなとは思っています。この言葉は「たぶんいまの自分はこっちの方向を目指すのがいいと思うんだけど本当にそれでいいのかな」と思っているときに背中を押してくれた言葉ということです。