哲学の問題に数学で挑むってどういうかんじ?
僕は経済学研究科に所属する大学院生です。
ただし経済学の中でも特殊な領域を専攻しており、「どんな社会が”良い"社会か?」「”公平な"資源の配分とは何か?」など哲学的な問いを扱っています。
この記事では、初歩的な数学以外は前提知識なしに、社会的選択理論(経済学の一分野。社会についての哲学的な問いに対して数学でアプローチする)のイメージを共有してみたいと思います。具体的にはより細かいテーマとして最近取り組んでいるPopulation Ethics(人口倫理)について取り上げます。
Population Ethicsのモチベーションを紹介しながら、Ng(1989)によって示された不可能性定理を証明も含めて説明します。
「数学をこんな問題を考えるのに使っているんだ!」「経済学の中にはこういう領域もあるんだ」みたいなことを共有できたら嬉しいです。
長い旅にはなりますが、ぜひ経済学の中でも特殊な世界を覗いてみてください。
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社会の構成員全員が少しだけ幸せである、
そんな社会を思い浮かべてみます。
衣食住には困らないけど、たまに孤独を感じたりすることはあって、人生に満足してるか聞かれたら少し迷いつつも「満足してるかもしれません」みたいに答える。
そんなかんじでしょうか?
次に、ほぼ全ての構成員がとても幸せだが1人だけすごく不幸せな社会を思い浮かべてみます。すごく不幸せな1人を想像するのは悲しいので描写はしませんが、まぁそういう社会を想像することはできそうです。
では、いま思い浮かべた2つの社会を比べたときにどちらの社会の方が望ましい社会でしょうか?
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「全員が幸せな社会」と「全員が不幸せな社会」の比較なら簡単そうですが、これはなかなか一筋縄ではいかない問題のように思えます。
どのような社会状態が良いかを判断するルールのことを”価値判断基準”と呼ぶことにすると、「望ましい社会状態とは、人々の幸福の合計が高い社会状態である」という価値判断基準はまず1つ有力かなと思います。この考えはUtilitarianismと呼ばれます。
また、「望ましい社会状態とは、その社会において一番不幸せな人の幸福度が高い社会状態である」という価値判断基準も有力なものの1つです。この考えはMaximin(一番低いMinを一番高くMaxにするというニュアンス)と呼ばれます。
他にも色々な価値判断基準が考えられますが、
•どのような価値判断基準を採用すると良さそうか?
•我々が価値判断基準に関して満たしておいてほしいと思う性質は何か?
•(有力であると思われる)複数の価値判断基準があった際にそれらの差異はどこにあるか?
などについて考えてみるのは大事そうです。
こういう問題について日常的な言語を用いて分析しても良いのですが(実際にそれも重要ですが)、非常にクリアな言語である数学を用いることで思わぬ発見があったりするので、数学を用いてアプローチしていこうというのが今回やりたいことです。
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どのような価値判断基準が望ましいかなどを考えていくにあたって、まずはそもそもの話として"価値判断基準”という概念に数学的な定義を与えます。
例えるなら「どういうゲームのルールが望ましいかを考えるために、そもそも”ゲームのルール”とは何かを定義しよう」みたいなかんじです。
価値判断基準の定式化にはいくつか種類がありますが、まずは標準的定式化(not Popolation Ethicsにおける定式化)を紹介します。その後にPopulation Ethicsにおける定式化を紹介します。それでやっとPopulation Ethicsにおける価値判断基準の具体的な性質などについて考える舞台が整うというかんじでそこから本題の不可能性定理に入っていきます。
"価値判断基準”という概念の標準的な数学的定式化
いまから色々準備しながら「価値判断基準」という概念に数学的な定式化を与えます。
まずは設定について考えます。社会にはさん、
さん、、、、
さんと呼ばれる、
人の個人が存在するとします。この人数は何かしらの
で固定されておりこれは動かないとします。
そして例えば (の時には)ベクトル
を「
さんが
だけ嬉しくて、
さんが
だけ嬉しくて、
さんが
だけ嬉しい社会状態」と解釈することにします。
より一般的には、次元ベクトル
は「
さんの嬉しさが
で、、、、
さんの嬉しさが
の社会状態」と解釈することになります。
こうすると、先ほど出てきた「全員が多少幸せな社会状態」と「1人以外はとても幸せだが1人だけめちゃくちゃ不幸せな社会状態」の比較は、
「ベクトルとベクトル
のどちらが望ましいか」のようなベクトルの比較の話に落ちてきます(具体的な数値はテキトーに決めました)。
なお、という嬉しさの数値が具体的にどの程度の幸せであるかについては今回は考えないことにします。またそもそも幸せとは何か、幸せをどう測定するかなどについても今回は立ち入りません。人々の幸せの情報がベクトルとして取得できるとした上で、どのベクトルがより望ましいかを判断するような世界観です。
いま、と
というベクトルの比較を考えたいという話をしましたが、実際にはこの2つ以外のベクトル同士の比較もしたいわけです。
我々が考えたい「社会状態全体からなる集合」をという記号で表すことにすると、これは
次元ベクトル全体からなる集合となります。
つまりという記号は集合を表しており(”集合”というのは箱のようなものです)その中には、
や
に限らず他にも
のようなものも含めて全ての
次元ベクトルが入っています。
ここまでの準備のもとで、(標準的な文脈における)価値判断基準とは「の任意の2つの要素(つまり任意の2つの
次元ベクトル)
が与えられたときに、どちらの方が望ましいか(もしくは同等に望ましいか)を判断するルール」というかんじに次のように定式化されます。
厳密には二項関係という概念を用いるのですが今回はそこには立ち入らずに少しふわっとした定義をしますが(そして関数っぽいニュアンスで書きますが)、
(標準的な)価値判断基準とは、
どんなつの
の要素
が与えられても、
、
、
のいずれかを返すルールのことである。
と定義されます。
ただし、は
の方が
よりも厳密に望ましいという意味で(
も同様)、
は同等に望ましいという意味で使われています。
これで、標準的な文脈における価値判断基準の定義ができました!
定義をみるとわかるように「価値判断基準」という概念自体には、どんなつの
次元ベクトル
に対しても
を割り当てるようなもの(どんな社会状態でも同程度望ましいと判断する意味の分からないもの)も含まれていることに注意してください。一見するとくだらない価値判断基準でもよく分析してみると良い性質を持っているなんてこともあるかもしれず、「価値判断基準」という定義の段階では非常に広く定義しています。
社会的選択理論における標準的な(or 古典的な)領域においてはこのように価値判断基準という概念を定式化した上で、具体的にどのような価値判断基準が望ましいかなどについて議論を進めていきます。
しかし今回はそこには入っていかずに、いまやった定式化とは異なるPopulatin Ethicsにおける「価値判断基準」という概念の定式化を紹介した上で、そこで定式化したPopulation Rthicsにおける「価値判断基準」について具体的な性質やデザインについて話を進めていきます。
Population Ethicsの視点
先ほどの話においては前提として社会を構成する個人がさんから
さんで固定されていました(社会を構成する人数がある自然数
で固定されていました)。そういう舞台の上で価値判断基準という概念を定式化したわけです。
このような定式化で基本的には問題ないのですが、実は子育て支援政策などについて考えたい場合には少し問題が発生してしまいます。
というのも、積極的に子育て支援をした場合には将来生まれてくる日本社会の構成員は増えると予想されますが、あまり子育て支援をしなければ将来生まれてくる日本社会の構成員は少なくなると予想されるからです。現在の選択によって、(日本)社会を構成する人数が変わってしまうわけです。
こういう社会的イシューについて考える場合には、「現在この社会がという選択肢を採用すると将来的に生まれてくる人数は100人でその全員が50だけ嬉しい状態が実現しそうだが、
という選択肢を採用すると将来的に生まれてくる人数は200人で全員が30だけ嬉しい状態が実現しそうだ。どちらの子育て支援政策が良いだろうか」みたいな判断をする必要があり、
先程定式化した、(例えばなどで固定された
について)
次元のベクトル同士を比較する価値判断基準の概念では役不足です(今回のような問題において求められる社会状態に関する価値判断比較をしてくれません)。
子育て支援政策に限らず未来について大きな影響を及ぼす多くの社会課題(限られた資源の配分や地球温暖化対策など)について考えるようとするとこの問題が出てきてしまいます。
これでは困るので価値判断基準という概念を(社会を構成する人数が変化する場合も含めて扱えるように)上手いかんじに定式化し直したくなってきます。
Population Ethicsにおける"価値判断基準"の定式化
先ほどはという記号で、(ある固定された
について)
次元ベクトル全体からなる集合を表ました。これが先ほどの定式化において考える「考えるべき社会状態全体からなる集合」だったわけです。
今回は「考えるべき社会状態全体からなる集合」をという記号で表すことにします。そしてこの
がどういう集合かというと、「有限次元のベクトル全体からなる集合」とします。
つまり、という集合(箱)には、
や
や
など次元が違うベクトルたち要素として入っているわけです。数値(実数)を有限個並べたものであったらなんでもいま用意した
という箱に入っていることになります。
こうすると社会を構成する人数が違う社会状態同士の比較が可能になる準備が整いその上で、
Population Ethicsにおける価値判断基準とは、
どんなつの有限次元ベクトル
が与えれたときにも(この
と
は先ほどとは違い同じ次元とは限らない)、
、
、
のいずれかを返すルールのことである。
と定義されます。
これでPopulation Ethicsにおける価値判断基準の定義ができました。
ちょっと図にしてみます。


これでPopoulation Ethicsにおける価値判断基準とは何かが定義できました。これを行ったことでやっと価値判断基準に関する具体的な性質やデザインの話に入っていくことができます(記事としてはあと半分くらいです)。
2点だけ重要な補足をしておきます。
まずは整合性の条件について。価値判断基準について”なんでもあり”なかんじに定義しましたが、さすがに「社会状態を取り出してきたときには
と判断して、社会状態
を取り出してきたときには
と判断するにも関わらず、社会状態
を取り出してきたときには
と判断する」みたいなことがあると、その価値判断基準は内部に矛盾を抱えてしまっています。そこで、このような不整合な判断はしないという条件だけは、"価値判断基準”という概念に定義の段階で課しておくことにします。
次に幸せの値の解釈について。幸せの値がどういう意味を持つのか(幸せの値がであるとはどういうことか)については考えないことにしました。それは基本的にそのままなのですが、Population Etchisにおいては
にのみ大きな意味を持たせます。幸せの値としての
は、「その個人にとってその人生を生きるのと生きないのが(その人生を経験するのと何も意識にのぼないでその人生を経験しないのが)どちらでも同じである幸せの水準」と解釈することにします。
幸せの値としてのをこのように解釈するのは、Population Ethicsならではです。標準的にはこのような強い解釈はしません(こういう強い解釈を持ち込まずに議論できるならそちらの方がいいと考えられるからです)。しかしPopulation Ethicsにおいては生死に関わる問題も扱う必要があるためこのような強い解釈を
に持ち込むことが一般的です。補足は以上です。
ここまでの話だと「価値判断基準という概念に数学的な構造を与えたけど、だからなに?」というかんじかと思いますが、ここから数学のパワーを存分に発揮して面白い発見をしていきたいと思います。
合計で判断する価値判断基準
(Population Ethicsにおける)価値判断基準の具体的な例として合計によって比較する基準を考えてみましょう。
これは例えばと
を
から取ってきた場合には、
と
を比較して
の方が望ましいと判断します。他にも
と
であれば同等に望ましいと判断します。
標準的な価値判断基準においても同じように合計で比較する基準を考えることはできますが、そこでは起きなかったような問題が今回は起きてしまいます(次元が違うベクトル同士の比較も許容することで初めて起きる問題があります)。
それは、すごく大きな幸せをすごく劣悪な幸せ(ただしよりは大きい)が量を増やせば常に凌駕してしますことです。
例えばという全員の幸せの水準が
である
億次元ベクトルを考えてみましょう(そして
という水準はとても幸福であるとイメージしましょう)。この社会状態は"かなりいいかんじ”です。
しかし、例えばというその人生を生きるのがいいのか生きない方がいいのかその個人にとってよく分からないけど微笑に生きた方がいいという水準を考えてみます。
するとの水準でも社会の人数をめちゃくちゃ多くしていったら合計で比較をする基準においては、いつかは
よりも良い社会状態だと判断されることになってしまいます。これはちょっとどうなのかなという気がしてきます。
つまり、合計で比較する価値判断基準の問題点として、全員が非常に高い幸せの水準を持っている人からなる社会状態を考えたときに、どんなに低い幸せの水準(ただし
よりは大きい)でも人数を増やせば前者よりも望ましいと判断されることが挙げられます。
そのような性質を持つ価値判断基準はRepugnant Conclusion(嫌な結論)を導く言われます。この概念をしっかりと定義しておきます。
(Popoulation Ethicsにおける)価値判断基準がRepugnant Conclusionを導くとは、
任意の正の実数と任意の自然数
を考えます。そして
人全員が
の幸せの水準を持つ社会状態
を考えます。次に
よりは小さい正の実数
を考えます。このとき必ずある自然数
が存在して、
人全員が
という幸せの水準を持つ社会状態を考えるとそちらの方が前者よりも望ましいとその価値判断基準が判断することである。
と定義されます。
ちなみに、Repugnant Conclusionを導かない価値判断基準には何があるかというと、例えば平均による比較は導きません。また、合計ではなく積で比較するような価値判断基準も導きません。
これらを確認するためにはとして
、
として
を取ってきて
という社会状態を考える。そして
として
という幸福の水準を取ってくるとどのような人数
を持ってきても前者には勝てないことが分かります。
合計によって比較するという具体的な価値判断基準について考えることで、我々はRepugnant Conclusionという概念(正確には価値判断基準がRepugnant Conclusionを導くとはどういうことか)の定式化を行いました。
平均で判断する価値判断基準
仮にRepugnant Concousionを導かなければなんでもいいや、ということであれば平均による比較とかをてきとーに用いれば良いでしょう。しかし、平均によって比較する価値判断基準には(Repugnant Conclusionを導くこととは別の)次のような問題点があります。
それは、最初にという社会状態を考えます。そして
という幸せの水準を考えます。このとき
をそのままにした社会状態(つまり
そのもの)と
に
を加えた
という社会状態を考えると
そのままの方が望ましいと判断されてしまいます。
合計による比較ではこういうことは起きませんが平均による比較ではこういうことが起きてしまいます。
そんなのしょうがないじゃんという気もしてくるのですが、という水準は
よりも高いわけですから、個人にとっては「その人生を経験しないよりは経験した方が良い人生」なわけです。にも関わらず
を追加しない方がいいよねというのは、
「社会の判断として、個人にとっては生きるに値する人生でも社会にとってはその人生がない方が望ましいと判断していること」になってしまっています。そう言われれると、たしかに平均による比較にもまた問題点がありそうだなという気がしてきます。
価値判断基準がこのような問題点を起こさないとき(つまり正の幸せの追加が望ましさを落とさないとき)、その価値判断基準はMere Additionを満たすといいます。Repugnant Conclusionと違ってMere Additionは満たしていて欲しい性質として定義していることに注意してください。
(Population Ethicsにおける)価値判断基準がMere Additionを満たすとは、
任意の社会状態を
から取ってきます。次に
より大きい幸福の水準
を考えます。このとき
と
に
を付け加えた
の比較についてその価値判断基準が
もしくは
と判断することである。
と定義されます。
Ng(1989)の不可能性定理
ここまでで(Popuolation Ethicsにおける)価値判断基準という概念の定義をした上で、その具体的な価値判断基準として合計による比較と平均による比較を考えることで、
価値判断基準に満たして欲しくない性質としてRepugnant Conclusion、満たして欲しい性質としてMere Additionが出てきました。
この2つ以外にも満たして欲しいと考えられる性質や満たして欲しくないと考えられる性質は色々と考えられますが、この2つはPopulation Ethicsという分野において初期から議論になっている重要な性質です。
そして実は驚くことに、(非常に納得的かつ弱い2つの条件のもとで)Mere Additionを満たす価値判断基準はRepugnant Conclusionを導くことを示すことができます。
これがNg(1989)が発見した不可能性です(つまり、これから紹介する非常に納得的な2つの条件とMere Additionを同時に満たしながらRepugnant Conclusionを導かない価値判断基準は存在することが不可能であることをを示しました)。
もちろん不可能性を示しただけでは「じゃあ、具体的にはどういう価値判断基準が望ましいのか?」については答えられませんが、価値判断基準のデザインを考える際の大きな足がかりになります。
なお、非常に納得的かつ弱い2つの条件は何かというと、それは「Minimal Increasingness」という条件と「Minimal Equality」という条件です。定義しておきます。
(Population Ethicsにおける)価値判断基準がMinimal Increasingnessを満たすとは、
任意の2つの次元が同じベクトルを
から取り出したときに、
と
のようにどちらもコンスタントなベクトルになっており(
がいずれも定値ベクトルであり)、かつ
の方が
よりもベクトルの大小の意味で厳密に大きいならば、その価値判断基準が
と判断することである。
と定義されます。これは上に書いたようにと
だったら前者の社会状態の方が望ましいと判断してね、他にも
と
だったら前者の方が望ましいと判断してねということです。
Minimal Increasingnessは非常に納得的であるだけでなく弱い要求であり、例えばと
などについては前者の方がどの成分も大きいですがこのようなコンスタントではないベクトルの比較について何も要求しません。
もう1つの条件であるMinimal Equalityは次の通りです。
(Population Ethicsにおける)価値判断基準がMinimal Equalityを満たすとは、
任意の次元ベクトル
を
から取ってきます。そして
のように
と合計が同じだがコンスタントな新しいベクトル
を考えたときに、その価値判断基準が
もしくは
と判断することである。
と定義されます。これは例えばを考えたときに
を考えると、後者の方が望ましいか同等に望ましいと判断されるべきだと要求しています。要求としては弱いですが納得的だと思います。
まとめると、Population Ethicsにおける価値判断基準について、いま定式化したMinimal IncreasingnessとMInimal Equalityの条件を価値判断基準に課すことにする場合、
「正の幸福の追加は常に社会的に望ましいと判断されるべきである」というMere Additionを要求すると、必ず「高い幸福の度合いは常に人数の多さによって低い幸福に負けてしまう」というRepugnant Conclusionを導いてしまう。
これがNg(1989)の発見した不可能性定理です。
つまり、我々は理想的な価値判断基準について考える際に、(Minimal IncreasingnessとMInimal Equalityはあまりに納得的であるため)、Mere Additionを諦めるか、Repugnant Conclusionが導かれることを諦めるしかないとなるわけです。
Ng(1989)の証明
それでは証明をしてみたいと思います。
示したいのは、(Population Ethicsにおける)価値判断基準が非常に弱いが納得的な条件であるMinimal Increasingness、Minimal Equalityを満たすとする。このときその価値判断基準がMere Additionを満たすのであれば、必ずRepugnant Conclusionを導いてしまうことです。
それではこれを証明するために、一応証明Repugnant Conclusionの定義を確認しておきます。
(Popoulation Ethicsにおける)価値判断基準がRepugnant Conclusionを導くとは、
任意の正の実数と任意の自然数
を考えます。そして
人全員が
の幸せの水準を持つ社会状態
を考えます。次に
よりは小さい正の実数
を考えます。このとき必ずある自然数
が存在して、
人全員が
という幸せの水準を持つ社会状態を考えるとそちらの方が前者よりも望ましいとその価値判断基準が判断することである。
それでは証明します。
Proof:
いまMimimal Increasingness、Minimal Equality、Mere Additionの3条件を満たす任意の価値判断基準に注目する(そのような価値判断基準は複数ありますがその中の任意の1つを固定して注目します)。
この注目している価値判断基準が具体的にどういうものかは分かりませんが、3つの条件を満たしていることだけが分かっています。いまからこの注目している価値判断基準がRepugnant Conclusionを導くことを示します。
そのためにまずは、正の実数と自然数
を任意に取ってきて固定します。注目するのは
という
人からなる社会状態です。
次に任意によりも小さい正の実数
を取ってきて固定します。この幸福の水準
を全員が持つ社会で、いま注目している
という社会状態よりも(いま注目している)価値判断基準によって厳密に望ましい判断されるものが存在すると分かれば、いま注目している価値判断基準がRepugnant Conclusionを導くと分かり証明終了です。
もう少し具体的にいえば、ある自然数が存在して
という
が
個並んだ社会状態を考えると、いま注目している
よりも価値判断基準が望ましいと判断してくれることを示ればRepugnant Conclusionが導かれて証明終了です。
ここで、よりもさらに小さい正の実数
を1つ考えます。そして
というベクトルを考えます(そしてこのとき次元をめちゃくちゃ大きくしておきます)。
そして、にこのベクトルを追加した
という新たなベクトルを考えます。
は
個並んでおり、
はそれよりも大量に並んでいるイメージです(本当は具体的な個数を明示する必要がありますが直感を得るためにはめちゃくちゃ多く並んでいると思えばOKです)。
この新しいベクトルと
の比較を考えると、
は正の実数であるため注目している価値判断基準がMere Additionを満たしていることから、
よりも
の方が望ましい(or 同等に望ましい)と判断されることになります。
Mere Additionは正の実数を追加しても社会的望ましさは落ちない(望ましくなるか同等のまま)であるという条件だったことを思い出してください。これが第一ステップです。
次にを次元と合計を変えずにコンスタントなベクトルにしたものを考えます(MInimal Equalityを使えるように"ならす"わけです)。これを
で表します。
すると、いま注目している価値判断基準がMinimal Equalityを満たすことからは
よりも望ましい(or 同等に望ましい)と判断されます。これが第二ステップです。
ここでにおいて
の数が非常に多いとしたことから
は
にとても近い数になっているはずであることを確認してください。
また、は
よりも小さい数であったことを思い出すと
も
よりも小さい数であると考えることができます。
すると、と同じ次元で全ての成分が
である
というベクトルを考えるとMinimal Increasingnessより
の方が
よりも望ましいと判断されることになります。これが第三ステップです。
以上を合わせると、
いま注目している価値判断基準は、
・より
の方が同等以上に望ましいと判断する。
・より
の方が同等以上に望ましいと判断する。
・より
の方が望ましいと判断する。
ことが分かりました(念のための注意ですがと
のベクトルの次元は大きく異なることに注意してください)。
ということは、この価値判断基準は(補足において説明した整合性の条件を持っていると想定すると)よりも
の方が望ましいと判断することになります(そうしないと判断の整合性が取れません)。
上の議論はまさしく、ある自然数が存在して
という高い幸せの水準が
個並んでいる社会状態よりも、
という低い幸せの水準が
個並んでいる社会状態の方が、いま注目している価値判断基準により望ましいと判断されることを示しています。
したがっていま注目している価値判断基準はRepugnant Conclusionを導くことになります。これをもって、Minimial Increasingness、Minimal Equality、Mere Additionを満たすどのような価値判断準もRepugnant Conclusionを導くことが証明出来ました。
まとめと補足
今回はNg(1989)の不可能性定理(非常に弱い2つの条件のもとで、Mere Additionを満たしてRepugnant Conclusionを避けるような価値判断基準をデザインすることは不可能であること)を中心に、Population Ethicsという分野について紹介しました。
今回示した不可能性は非常に重要です。これが示された以上、Mere Additionを満たすことを思い切って諦めるか、Repugnant Conclusionを避けることを思い切って諦めるか、どちらかを少し弱める(Mere Additionより弱いweak Mere Additionと呼びたくなるような弱めた概念を考えるなど)かなどをしないといつまでたっても具体的な価値判断基準には辿り着けないことが分かります。かなり偉大な不可能性定理です!
また、今回出てきた条件以外に重要な条件がないか探してみたり、不可能性を示すだけではなく具体的なデザインについての「可能性」についても数学にを使って探求できるのでそちらも重要です(実際にこのような方向の研究は今回の不可能性定理以降多く出てきました)。
大学院ではこんなかんじに、数学を使って社会に関する哲学的な問いについて考えています!
Fin.
このブログはもう更新しません。
ありがたいことに、「ブログ(I’m Ko)ってもう更新しないの?」と聞いて頂くことがいまだにあるのですが、このブログはもう更新しないことに決めております。
理由としては修士に入って最初の方に書き始めて、修士卒業くらいのタイミングまでコンスタントに書いてきたことで、このブログが僕の修士時代の青春の記録のようになっているからです、なんかそれって素敵じゃないですか〜。
他のブログ媒体はいつか始めるかもしれませんので、そのときはどうぞよろしくお願いします。ご愛読ありがとうございました!
Fin.
通学路でふりかえる大学院生活
大学院を卒業して就職するので(卒業を1年延ばしていたので3年かけた修士課程が終わりました)大学院生活を振り返りたい気分になってきました。
ただ、ほんとうに色々な思い出がありすぎて文章で振り返るのは骨が折れすぎそうです(笑)。
そこで代わりに、気が向いたらときに撮っていた通学路である上野公園と不忍池の写真をセレクトすることで振り返りにしようと思います。
東大に行くには本郷三丁目駅などを用いるのが一般的ですが、僕は上野駅から上野公園と不忍池を通って大学に向かうルートが好きでした。
通学路の写真を振り返るのが大学院生活の振り返りになるのかはそれなりに不明ですが、まぁお気に入りのルートを振り返ってみるのは普通にいいかんじそうなのでやってみます。
ーーーーー
まずは、特にお気に入りの1枚から。

こんなかんじで自然豊かなんですよね、このルート。
つづいて夕陽です。


紫陽花もつづきます。



緑もいいね。



鳥も結構いろいろ。



並んでるの可愛くない?

結局乗らなかったボート。

そういえば同期と不忍池を歩いていたときに「もう大人だからさすがにあのボートに乗ろうとは思わないなぁ」と言ったら、その同期が「俺、、、実は先週はしゃいであれ漕ぎまくったんだわ、、、」と気まずそうに返してきたなんてこともありました。笑
小話は置いといて、夜もいいです。



遅くまで勉強した日や飲み会後には、このひんやりとした夜の美しさに癒されました。
賑わいをみせるのは桜の季節です。







夜桜。

雨とのコンビネーションは捨てがたいです。



銀杏も忘れちゃいけないね。



街灯。


謎に躍動感ある一枚。

紅葉もいいですね。




これも結構お気に入り。
「枯れ」の季節。


宝石みたいな。



咲いてなくてもいいかんじ。



この白い花も割と好きでした。

この日はテンション上がったなぁ。





奇跡のような。



池のお手入れを目撃したこともありました。


あんま買い食いはしませんでしたが、屋台とかフェスティバルが出てたりもしました。



力強い青空。

この雲いいかんじ。

いよいよ最後。つい先日の卒業式のあと楽しすぎて始発で帰ったときの明け方の不忍池。やばくない?




それなりに辛いこともあった大学院生活でしたが、通学路を振り返るだけでもいい大学院生活だったなと感じることができるほど素晴らしいものでした。
関わってくださったみなさんありがとうございました!そして、大学院生活に彩りを与えてくれた上野公園さんと不忍池さんもありがとうございました!
Fin.
大学に向かう電車の中で急に行き先を変えてみた。
色々な事情が重なったんです。
予定されていたミーティングがなくなったり、ほぼ毎日大学に来ている友達に一緒にご飯食べようとLINEしたら「今日は行かない」と返信がきたり。
大学に向かっていたはいいものの、どうにも気分が乗らなくなってきた僕は、思い切って誰もがやりたいことを決行することにしました。
それは、降りるべき駅で降りないでどっか行っちゃうってことです。
本当は研究もしないとだし、バックの中には普通に読むべき論文とか入っているけど、まぁ、たまにはいいよね。
そんなふうに思って、どこかに行くことにしました。
そう決めたはいいものの、その「どこか」を決めなくてはいけません。色々と悩んだのですが、せっかくなので随分と前から行きたいと思っていたところに行ってみることにしました。
埼玉県横瀬町です。
ーーーー
横瀬町のことを初めて知ったのは、大学2年生の夏休み。この時僕はある島を訪れていてそこで飲み会に参加していたのですが、そこで横瀬町の役場で働く田端さんに出会いしました。大人数の集まりだったので、あまりお話はできなかったのですが、衝撃的だったのは飲み会が終わったあとに田端さんが、気持ちよく道路で寝ころんでいたことです(のどかな島なこともあって寝転がること自体は大丈夫な状況ではありました)。
こんな大人がいるんだ!(しかも自分の中の「公務員」のイメージと違いすぎる!)
あとから聞くに田端さんは「横瀬町の名物公務員」らしくすごい方だったのですが、その時は「横瀬町って埼玉県にある自然豊かな町らしいけど、なんだかやばそう....」という印象のみを横瀬町に持ちました。笑
その後、あるときに偶然にも横瀬町の取り組みを知ることになりました(インターン先で調べ物をしていたときに見つけたと記憶しています)。
それが「よこらぼ」です。

実証実験や企画などやってみたいことがある外部や内部の個人・組織に横瀬町が実施フィールドの提供を初めとする様々なサポートをしてくれる制度(審査制だが現時点で100以上のプロジェクトが採択済)。アンケートや簡単なイベントの実施から大掛かりなプロジェクトまで色々な挑戦をこれまで応援してきたようです。
埼玉の小さな町が「日本一チャレンジする町」を掲げて具体的な仕組みまで整えて実績を積み重ねている。これを知ったときに「いつか行ってみたい」と思いました。
あとは、都内から行きやすく自然が豊かだったことも重なり、その日の行き先が決まった僕は、池袋駅に向かい横瀬町に向けた電車に揺られることになりました。
ーーーー
40分くらいしてくるとどんどん空いてきます。

途中で通過した駅を見ていて驚いたことがあるのですが、駅舎に布団が干してありました(笑)。田舎の駅だとよくあるんですかね。僕は普通に驚いて写真撮ってしまいました。

そんなこんなで1人で盛り上がっていると、念願の横瀬町に着きました!


さて、どうするか?
実は横瀬町に行くと決めてから、Facebookで「おすすめの場所教えてください!」と投稿してみたら1時間半くらいでありがたいことに色々な情報が集まってきていました。その情報によると、どうやら横瀬町にはラーメン屋さんが多いらしく、今回はその中でも「大金星」というラーメン屋を目指すことにしました。
いきなりラーメン屋に向かうのって最高ですね。



町を10分くらい歩くと、「大金星」!!

やばすぎ。笑

他のラーメン屋もすぐ近くにあったのですが、これまた味のある外観で次はこちらにも行ってみたいと思わせるものでした(流石にラーメンのはしごはやめておきました。笑)

お腹いっぱいになって少し昼寝でもしたいなと思っていたら、Facebookの投稿を見つけた田端さんから「今日は忙しくて案内できないけど、素敵なフリースペースがあるから休憩したいときとかに是非きてみて!」的なコメントをつけてくれていることを発見。

これは幸いと、
色々と寄り道しながら歩いて行ってみることに。

これは町役場。

役場の入り口には学童保育の子どもたちが作った「地球」のアート作品が飾ってありました。一番目立つところに何を置くかってセンスが出ると思いますが、これは割と好きです(「町役場」なのに「地球」ってのが特に好き)。

道中の花もいいかんじ。

これは郵便局。

これはJA。

ここは公民館。
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あれ、おかしいな。
この辺りに教えてもらったお洒落なArea898ってスペースがあるはずなんだけど。全然見当たらない。。。。
ちょっと迷子になりました。
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でも実は、よーくみると、

さっき通りすぎたJAがArea898でした!

普通にJAとして認識していたのでマジで気づきませんでした(だってJAの看板があるし、なんなら建物にJAって書いてあるし...)。
恐る恐る入ってみると、

めっちゃ素敵なスペース!
ここは(正確には先ほどの写真における右側の建物は)もともとはJAが農作物を扱っていたスペースを改築したところらしく、奥の青いロッカーなどはJAのものをそのまま使っているとのこと。
ちょうど誰もいないタイミングを狙って写真を撮ったのですが、普通に多くの人が利用していました。
例えば、横瀬町と連携している都内のIT企業の方(移住してきている)が週2日スマホでもPCでも主にお年寄りがIT関連のことを無料で相談できる会を開いていて、そこには僕がいた1時間くらいで5人ほどのお年寄りが訪れていました。

こっちのスペースは、残りの建物の部分を後から改築したもの。一般の人も無料で使えるらしいですが、一部エリアは「宿泊者」のみが使えるらしいです。
宿泊者ってのは何かっていうと、実はこのスペースには泊まることができるようでした(月4万円弱で全国の色々な地方のスペースに泊まれるサービスを提供している企業の施設。1泊だけとかも割高になるができる)。



作業スペースから、育児スペースから、サイクリングまで。

あと、ここは面白くてJAの「金庫」をそのまま利用した集中作業スペース。

宿泊者用にキッチンスペースも。

2階には主に子どもたちが遊ぶためのこれまた素敵な空間がありました。
横瀬の木で作られているらしいです。放課後には7人くらいの小学生たちが遊びにきていて賑やかでした。また、この施設のすぐ前には、


こんなフリースクールが。おそらく大人も参加できるドローン教室のイベント案内などもあり攻めてるかんじでした。
そして、少し歩いたところにあるのがこれ。

ENgaWA(えんがわ)チャレンジキッチン。横瀬町の地域商社である"ENgaWA"さんが運営している施設です。
地域の食材を用いた新規商品の開発や、イベントなど食に関するチャレンジができる空間らしいです。
「今年はぶどうが多くできたから、ぶどうを使った商品を作ってみよう」みたいな手順で農家の人と話が進むなど、「こういう新規商品作ったらめっちゃ売れるだろうから、これを育てて商品にしよう」みたいな発想ではないことを案内してくださったENgaWAの方々が教えてくれたことは印象に残っています。
このあたりの施設が、視察にきた人とかにもよく案内するスポットのようです。

あとは町から少し外れたエリアは散歩コースとしてもやばかったです。
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以上が今回の横瀬町の探索で見てきたところです(実はArea898とその周辺施設で地域コーディネーターの方とENgaWAの方に急な訪問にも関わらずそれぞれ1時間以上案内や説明をして頂きました)。ハイキングコースなどは回りきれませんでしたが、
大満足で帰路につきました。
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この記事も終盤ですが、なんだか褒めすぎた記事になってきた気もするので(普通によかったのでそうなってしまいました)、ちょっと気になったポイントを1つ挙げておきます。


花がめっちゃ綺麗な町なのに、駅前の広場のトイレ(横瀬町に着いて最初に訪れる人も多そう)にあまり綺麗ではない造花が置かれていたのは少し残念でした(置かなくてもいいかなと思いました)。
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そして、最後の写真はこちら!
僕と田端さんです。

なんとArea898で再会することができました。
Area898に入ったとき視察受け入れ準備中の田端さんがいらっしゃって、少しだけお話させて頂くとともに、施設を案内をしてくださったENgaWAの方などと繋げて頂きました。
今回は会えないと思っていたので、すごく嬉しかったです。
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大学に向かって普通に過ごす予定の日だったのに、こんな体験をしてしまう日になりました。皆さんも、気が向いたら年に1回くらいは電車の中で行き先を急に変えてみるといいかもしれません。そして、そんな時には横瀬町はいいかんじの候補になりそうです。
案内をしてくださった横瀬のみなさん、ありがとうございました!
Fin.
帰る街が海外にある、ということ。
「高校留学の魅力」について考える機会は多かった。なんのことはない自分自身が高校留学をしていたからだ。
僕は高校時代1年間メキシコに留学して、現地の高校に通いながら現地のホストファミリーと暮らした。珍しいようにも思えるが僕が利用したAFSという高校留学の団体からは、毎年数百人の高校生が日本から各国に旅立っていた。
新しい文化•暮らしに入っていき、知らなかった人たちと家族になり、知らなかった人たちと友達になり、現地の教育システムを身をもって体験する。
留学前は「なんか留学するといいことありそう」くらいの気持ちだったし、一定以上周りからの影響もあっての留学だったが(例えば小学生のときに留学生を受け入れた経験がある)、上記のような経験をして帰国すると、「とてもいい経験ができたな」と満足した。留学直後の自分に高校留学を他人に勧めるか聞いたらポジティブに答えたと思う。
ただ、どうやら僕より何十年も前に「高校留学」を経験した人たちの話を聞くと、高校留学の魅力(感受性豊かな時期に現地の家庭などに深く溶け込むことの魅力)は、年を重ねるごとに深まるらしかった。
「君はいま留学から帰ってきたわけだよね。大学時代や大人になってから世界中を旅するのもいいけど、数年ごとに留学した街に帰るのを繰り返すのもいいものだよ」
という言葉を貰ったりもした。
「へー、そうなんだ。自分としては積極的にメキシコ以外の国にも行って比較とかしたいけどな」というのが当時の正直な受け取りだったが、「どうやら高校留学にはまだまだ自分が知らない魅力が隠れているらしい」と思うようになった。
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高校留学→1回目の再訪→2回目の再訪(いま)
大学生になった僕は夏休みにメキシコを初めて再訪した。そして大学院生のいま2回目の再訪をした。この記事は帰りの空港で書いている。
この記事の主役は、それぞれの再訪において起きた思わぬ心境の変化だ。留学先への再訪を通して何事にも代えられないと思うほどの、大切な心境の変化に出会えた。
おそらく高校留学に対して自分が感じる魅力は今後さらに深まっていくだろう。そういう意味ではまだ「高校留学の魅力」を語るには早いかもしれない。
とはいえ、2回の再訪を通して自分が感じたことは高校時代の自分には想像がつかないものではあったはずなので、高校時代の自分に向けて、2つの心境の変化について書いてみるのは何かしら意味はあるかもしれない。「僕は留学が終わったあとにこういう高校留学の魅力に出会えたよ」ということを書けたらと思う。
* 以下はすごく個人的な文章で備忘録ですが、例えば高校留学直後の人で、「基本的には留学に満足したけど他の選択肢と比べたときにも良い選択だったかは自信ない」みたいな人に対して「僕はこんな魅力にさらに出会えたよ」と伝えられるものにはなっているかもしれません。

留学中に飼っていた「ルーカス」
どんな所に留学してたの?
僕が住んでいたのはサンルイスポトシというメキシコの地方都市で人口は130万人くらい。広大な荒野の中にポツンとある都市です。
サンルイスポトシには、最新の商業施設から歴史的建造物まで一通り想像できるものはなんでもありますが、派手さを感じるエリアなどは見当たらず、落ち着いています。
それを反映してか、住んでいる人たちもなんだか穏やかで、「陽気なメキシコ人!」というイメージはあまり当てはまりません。気候もこれまた穏やかで気持ちのよい快晴が年中続くので、「メキシコの諸々穏やかな地方都市に留学していました」と言ってよさそうです。

今回の再訪時にできていた商業施設。

歴史的なエリア。
僕が暮らしていた家はサンルイスポトシの裕福な家庭が集まる地区にあり、ホストファザー、ホストマザー、ホストブラザーの3人と暮らしていました。学校も進学校で結構ちゃんとしていました。
概要としてはそんなかんじで留学時代の自分の様子でいうと、僕は日本では柔道部に入っていたので、メキシコ来てからも柔道やりたいと思ったんですね。それで友達を誘って休み時間に砂場で柔道をしてみたり、学校に「柔道クラブ作ってもいい?」と交渉してみたりなんてこともしてました(強引なやり方だったので普通に断られましたが)。
他にも参加を理不尽に強いられていると感じたイベントの参加をゴネたり、すごくローカルな地区に行きたくなってちょっと無理して訪れてみたり….みたいなかんじで、なんだか少し面倒くさいやつというか肩に力が入っていたように思います。
たぶん、「自分の考え」ができてきた時期で色々やってみたかったのだと思います。
メキシコにはメキシコのカルチャーがあることは分かる。それは尊重する。だけど僕には僕の考えがあるし、それを無視されるのは違うと思う。大事なのはコミュニケーションを取ることだよね。
みたいな考え方で(いやまぁそれ自体は立派な気もしますが中々そんなかんじではコミュニケーションなんて取れないよねぇとは思います)、「そこはもう少し上手くやったらいいのになぁ」と思うことでも上手くやることはできず、基本的には不器用なかんじに留学生活を送りました。
ただ色々問題はあったと思うのですが、家族や友達に恵まれたこともあり、大きなトラブルもなく最初から最後まで楽しく留学生活を送ることができました。
例えば柔道についても、学校では実現しませんでしたが近くの柔術教室のスペースを借りたりできました。また、街に柔道教室があることを偶然発見してそこで学校外の友達ができ、その柔道友達の家に泊まりに行ったりなんてこともありました。どれも良い思い出です。
当時の自分は誰にたいしても純粋に仲良くなりたいと思っていたし、色々と一生懸命だったので、(自分側の要因としては)その辺が楽しい留学に繋がったんじゃないかなと思います。日本に早く帰りたいと思ったことはなかったし、ホストファミリーから帰国が近くなったタイミングで、「よかったらもう1年メキシコにいない?」と誘われた時にはとても嬉しかったです。

ホストファミリーとの留学最終日の写真。
1回目の再訪
さて、最初の再訪ですがこの時は弟を連れていきました。歳が離れていて当時小6とかだったので弟にとっては大冒険です。
サンルイスポトシの空港は荒野の中にあるのですが(都市から少し離れているため着陸の直前には周りに建物などは小屋くらいしか見えない)、着陸するときに外を見た弟はやばいところに来た(街がない.....サボテンしかない.....)と勘違してびびるなんてこともありました。笑
空港には、ホストファミリーが迎えにきてくれました。久しぶりの再会です。
そしてそのまま車で家に向かったのですが、着いてみてびっくり。ドアの様子が僕の記憶と違うなと思ったら歓迎の装飾がしてありました。

これは嬉しい。
初めての里帰りだったこともあって忙しく色々な人と再会することになりました。また、週末にはホストファミリー主催の歓迎パーティーを開いてるもらったりもしました。パーティーを開いてもらえるありがたさもこの時には(留学中よりもしっかりと)感じました。

親戚や友達が集まってくれた。
10日ほどの滞在でしたが濃い時間になりました。そして最後に街を離れるとき。ふいに「あぁ自分はいままで自分が認識していたよりも何倍もの愛情をホストファミリーや友達たちから注いできて貰っていたのだな」と気づきました。
たぶん大学生になって少し大人になったことで、留学当時には気づかなかったちょっとした気遣いが分かるようになったり、弟を連れて行ったことで「何も分からない海外で面倒をみてもらう」という自分が留学時にしてもらったことを弟を通して再確認したり、そんなことが積み重なった結果だと思いますが、
「自分は留学中に色々な気遣いや愛を本当に多くの場所で受けてきたのだな。そしてそれは日本でもきっと同じで所々で多くの気遣いや愛を気づかないうちに受けているんだろうな」と思いました。そう例えば僕が友達と騒いでいたけど楽しそうにしているから周りの人が注意しないでそのままにしてくれていたなんてことも多くあったのだろうと思います。
そんなことを感じていたら、「なんだか社会ってのは極端な言い方をすれば愛で成り立っているんじゃないか」みたいな気持ちにまでなりました(「愛」とか「気遣い」とかそういうもののおかげで社会が機能している側面は思ったよりも大きいのかもしれないと思いました)。
まさかこんな気持ちになるとは。
大きな心境の変化でした。
2回目の再訪
そして今回の再訪ですが1人で行ってきました。2週間ほどの滞在です。前回が忙しすぎたことを受けて今回は会う人を絞るなど、里帰りがちょっと上手くなっていました。笑
今回の心境の変化はまずは行く直前にありました。
飛行機のチケットを取ったタイミングとかでは「またメキシコ行くぜ〜、家族や友達と会えるの楽しみだな〜」くらいのかんじで特に何も考えていませんでしたが、出発の2日くらい前になってくると気持ちも高まってきて色々考えたりするものです。
そうするといくつかの想いが出てきたりするのですが(あの料理食べたいなとかくだらないものも含めて。笑)、
その中の1つに、「あぁなんだか今回はホストファミリーに自分が愛を与える側になりたいな。できるかは分からないし慣れていないから難しそうだけど、そういう試みをしてみたいかもしれない」という想いが出てきました。
留学中には自分のことで精一杯だったけど、最初の再訪で「あぁ自分は色々な愛を受けてきたのだな」と気づけた。ただその時点では「本当にありがたいな」という感情になっただけで(それはそれですごく大事だけど)、そこから先については特に何もなかった。でも今回はまた違う気持ちになったわけです。
これも印象的な心境の変化でした。
そして実際に2回目の再訪をしてみて、(気遣いとかそういうレベルではあるけど)少しだけ自分から愛情を与えるような試みをすることができました(詳細は恥ずかしいから書かないけど。笑)
本当はホストファーザーと2人だけでご飯を食べにいってお喋りをする機会も作りたかったのだけど(ホストファーザーはいつも見守ってくれているかんじで1対1でゆっくり話す機会はなかなかないのだけど、きっと話したいと思っているのだろうなと感じる)、色々とあって今回は再訪ではその機会を作れませんでした。これは心残り。次回に持ち越しです。
そんなかんじで上手くいかなかったものもあるのですが、自分のことで精一杯だった留学時代とは全然違う気持ちを起点にいくつか行動することはできました。
そして、もうほんと頭が上がらないのだけど、自分が愛を与えようとするほどに、ホストファミリーからの愛をひしひしと感じました。これは心境の変化というかんじではないかもしれないけど、今までとは少し違うレベルで愛情を感じました。

再訪最終日に家族で伝統的なメキシコ料理。
改めて魅力を考える
以上が僕が2回の再訪で感じた心境の変化です。こういう心境の変化が留学先の街で時間を経ながら積み重なっていくことを味わえるのはなんともいえないものです。大きな心境の変化以外にも、サンルイスポトシという街に色々な感情や情景が積み重なっていきます。
これやっぱり大学の一般的な留学プログラム(特に寮などで生活するタイプ)とかだとなかなか難しい気がします。高校生というまだ自分では何もできない時期に家庭や地域に入り込むと深く人と関わらざるを得なくて、だからこそその後に大切な心情の積み重ねなどが可能になっていく側面はあると思います。
そして、海外ということもあって頻繁には帰りづらかったり文脈が日常と異なっているなどの断絶があることで、大きな心境の変化が起きやすかったり、それまでの心境との比較がくっきりしやすい側面もありそうです。
もちろん高校留学っていいことばかりではなくて多くのトラブルを聞くし、高校生には酷なのか鬱病になった友達などもそれなりの数います。
そういう側面は無視すべきではありませんが、留学先の街で日本での日常とはまた違うすごく大切なものが時間をかけながら積み重なっていく。日本と離れているからこそ、その積み重ねを純粋なものとしてくっきりと味わうことができる。
この「積み重なっていく感覚」こそが留学後に感じる「高校留学の魅力」だと思います。もちろん再訪したりすると留学中の失敗とか悲しい記憶とかを思い出すこともあるけど、そういうものに対する受け止めも年を経るごとに変わっていくわけで、その積み重ねもまた味わい深いように感じます。
「高校留学の魅力」としてこの点はすごく大事だなと思っています!
Fin.
経済学(社会科学?)の目的ってなんだろう。
マクロ経済学を専攻している友人たちと、
「現在のマクロ経済学に満足している?もしマクロ経済学を大きく変えられるとしたら何を変えたい(例えば全く新しいタイプの手法を取り込んだり、現在主流の仮定をひっくり返したりできるとしたら何をひっくり返す)?」
という話になった。
普段はこんな大きな議論はしないし、そもそも僕はマクロは門外漢。背景として「現在のマクロ経済学に足りないものを自由な発想で大きく考えてみよう。そしたら何かいいアイディアに繋がるかも」みたいなかんじだったのだけど、僕からしたらそもそもマクロ経済学が何をやっているか知らないので「特に意見ないな....」となってしまった。
結局、ほぼ黙ったまま会話は終了。
この話題、綺麗さっぱり忘れてもよかったのだけど(自分の研究に役立つとは思えないし.....)、このときに少し考えた「そもそもマクロ経済学の目的ってなんだろう」という問いは頭に残っていた。
なんかちょっと昔から漠然と抱えていた気持ちとして「マクロ経済学の授業を受けても、マクロ経済学という学問のすごさは分かっても現実の経済はさっぱり分からないままだな。もどかしい....」と感じていたのもあって、「マクロ経済学」というものについて改めて自分なりに考えてみたかった。
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マクロ経済学の目的(自分にとってしっくりくるマクロ経済学の目的)ってなんだろう。。。。
経済の予測を精度高くすること?
んーこれはちょっと違う気がする(そもそも予測なんて原理的にできない問題もありそう)。
じゃあ、経済の動きに説明を与えること?
説明するだけではちょっと足りない気がする...。
"経済”というのは重大だけど何も知らないと困った挙動をしてしまうから、それを分析したりする学問は必須なんだろうけど、「分析」みたいな用語だと、「経済と上手く付き合っていく」みたいなニュアンスは出てこない。
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モヤモヤ考えていました。
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そしてついに、
自分なりにしっくりっくる表現が出てきました。大した表現ではないのですが、、、
マクロ経済学の目的は「経済と仲良くなること」。
これどうでしょう?
完全な予測はできないし完全にコントロールすることはできないけど(友達との関係でも友達の行動や気持ちを完全に予測したりコントロールすることは目指さないしできないけど)、仲良く付き合うことはできる。仲良くなるためには相手を理解することは大事だけど完全に理解するのを目指すのではなくて、相手を尊重しながら大事な積み重ねていく。そんなイメージです。
マクロ経済学の研究をしたら(マクロ経済学の授業を受けたら)、「経済」と「友達になれる」ってのは結構魅力的に感じます。そういう感覚になれたらいいなと思うし、完全な予測やコントロールとは異なる「たまに喧嘩もするけど上手く楽しく付き合う」みたいなニュアンスがしっくりきます。
将来マクロ経済学を勉強する機会があったら、”現実の経済と仲良くなれたらいいな”と感じられることを目標に勉強してみることにします。
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「仲良くなる」という言葉は漠然すぎて微妙と言われてしまいそうだけど、僕としては、自分のスタンスを上手く表現できた気がして満足しています。笑
そして、マクロ経済学に限らず、自分がやっている社会的選択理論についても、
「社会溢れている難しいが対処すべき規範的な問い」と「仲良くなる」ための学問になっているか。
と考えてみるのは意味があると思いました。理論の精緻化とかしているけど結局どこを目指しているんだっけ、に対する1つの方向性として「その対象と仲良くなる(上手く付き合えるようになる)」ってのはありではないか。
社会(経済も含む)はよく分からない複雑なものであり(だからこそ面白い)、時に凶暴な挙動もするように思います(これは困る)。そんな社会ってものと仲良くなるための社会科学なんてコンセプトもいいかもしれません。
Fin
論文を読むスピードが2~3倍速くらいになってきた。
自分が専門にしているSocial Choice Theoryの論文を読むスピードが半年前比で2倍〜3倍になってきて、生産性がすごく上がりました。慣れもあると思うのですが論文の読み方を根本から変えたことが大きいと思っています。
学部生の時から、僕は論文を1文ずつ前から丁寧に読むタイプで時間がかかって仕方なかったです。しかしだからといって飛ばし飛ばしで読んだら何も理解できない気がしていたので困っていました。ところが、先生からのアドバイスなどを参考に思い切って読み方を変えてみたら大きな効果があったので、最近のやり方をシェアしてみようと思います。
・ある程度慣れている分野(大学院の授業を受けた上で数本論文を精読していて基本的なフレームワークを理解できている分野)の理論系の論文を2時間以上かけて読む時に役立つ方法だと思います。
・精読が苦手な人よりもなんでもかんでも精読する傾向にある人(つまり僕みたいな人)のヒントになり得ると思います。
・半年前の自分に伝えるつもりで書くので断定的な部分もあると思いますが、当たり前ですが理論経済学という括りが同じでも分野によってはこの読み方は合わないと思いますし、人や状況によって最適な読み方は変わると思うので(例えば論文を精読したことがほぼない学部生の自分にこのやり方は合わないと思います)ご注意ください。
ーーーーー
手順1:論文を読むときには必ずOverleafを開く。
Overleafでなくてもいいのですが、数式を含んだ文章をかける何かしらのサービスを用いて論文のまとめを作りながら読みます。論文の内容を前からまとめていくわけではないので紙とペンでは上手くいかないです。本筋ではないですが単純に読むだけと比べてこうしておくと読み終わったあとに自分なりのまとめが残る点も魅力的です。
「必ずOverleafを開く」と書きましたが、もちろん寝る前に印刷した論文を読んで気になっていた点を確認するみたいなこともあります。ポイントは、「論文を読み終えた=まとめ資料が完成した」に認識を変えておくことです。
手順2:アブストとイントロは読まずにいきなりnotationに目を通す。
アブストは読まないことが多くなりました。短い文とはいえそれなりに読むの大変ですし、アブスト読んだところであんまり上手く理解できないことが多かったからです。そもそも例えば先生から「ーーーーについて扱った論文だよ」と紹介された背景があったりするなど、なんとなくの内容は把握していることが多いので、アブスト読まなくても必要なことはそれなりに把握できている気もします。ただこれは僕が短い文章でも割と集中して読みがちなことも大きいかと思います(僕の場合アブストを読むコストが無視できないってだけでそうじゃない人は普通に読めばいい気もします)。
イントロも基本的には読まずに、いきなりその論文の表記の部分から読んでいきます。notationとかsettingとかpreliminariesとかそういうところです。慣れている分野であること+あとから戻ってくる前提なので、「あーはいはい、なるほどね」みたいなかんじで軽く目を通す程度にしておきます(軽く目を通すだけではまるで理解できない場合にはその論文は今回の手順で読むのに合っていない可能性があるので注意が必要です)。
手順3:Main Resultを探してOverleafに打つ。
これをいきなりやるのが肝だと思います(今までのやり方と一番変わった点です)。ここではそれなりに頭を使います。
いきなりMain Resultを探すようになってから、1年ほど前から指導教員に、「どのResultも同様に大事なわけではなくて論文にはMain Resultがあるからそれが何かを見極めるのが大事。そしてこれには一定の技術が求められる」と言われた意味がようやく分かってきました。PropositionとTheoremだったら一般的にTheoremの方が重要であるというのは知っていましたが、Theorem同士でも重要さが全然違ったりするんですね。
論文の残りのパートをざっと見て(TheoremとかPropositionとかLemmaを一通り眺めて)、論文の構成を一通り確認しつつ、どの結果がMain Result(複数あることもある)かを見極めます。これは慣れていない分野だと難しいと思いますが、「これがMain Resultだよ」と書いていてくれている論文もあります(とはいえそれ以外にもMain Resultがあるかもしれないのでやはり慣れていることは必須かもしれません)。必要になったら後からMain Resultに追加すればいいので、この時点では絞る方向で考えます。またこの時点でConclusionのパートを見ると参考になることも割とあります。
ここではMain Resultの意味を、「自分が今回のまとめ作りで理解したいと思っている主張(今回のまとめ作りで外せないと思われる主張)」と考えておくと分かりやすいと思います。いわゆるMain Resultではなくても外せない内容だなと思ったらいれてしまっていいと思います。
Main Resultを見極めたら、まだ何も書いていない(or タイトルとかだけ書いてある状態のTexファイル)にMain Resultのsectionを作って(Main Resultが3つ以上ある場合にはsectionを2つ作ることが多いです)、そこにMain Resultを打ち込んでしまいます。この時点でのtexファイルは、論文のタイトル+Main resultのstatementが載っているだけというかんじです。
手順4:Main Resultを理解するために必要なnotationと定義をまとめる。
上で打ち込んだMain Resultを理解するのに必要なnotationや定義を確認していきます。いきなり全てのnotationや定義を前から読む場合と比べてこちらのほうが全然楽です。書く内容は最低限に絞って、自分がその資料だけを見たときにmain resltの内容を理解できるための内容を資料に打ち込んでいきます。
必要なnotationが少ない場合には各main resultの下などに箇条書きで書いてしまえばいいですが、ある程度の分量ある場合にはnotationのsectionを作ったりします。
この時点での標準的なファイル構成はこんなかんじです(ただし、Social Choiceにおけるcharacterizationの論文の場合)。
資料のタイトル(=論文のタイトル)
1:最低限のsetting
・Definition 1. A Social Welfare Orderingis ーーー if ーーー。
・
・Social Welfare Orderingon
2:Main Result(2つ)
・Theorem1:A SWO
satisfies Continuity, Strong Pareto, and Anonymity if and only if ----。
・Continuity:ーーーー
・Strong Pareto:ーーー
・Anonymity:ーーーー
・Theorem 4:A SWOsatisfies Continuity, Strong Pareto, Anonymity, and Separability if and only if ----。
・Separability:ーーーー
・Separabilityに関して論文に書いてあった注意点。
Section1で最重要の定義と最低限のnotationだけを書いておいて、section2の最初でいきなりmain resultの1つ目の主張を書いた上で、それを理解するのに必要なnotationや定義(今回でいえばContinuityなどの定義)をその下に書いておきます。そしてそのあとにTheorem 4の主張とそれに必要な定義などを書いています(この例でいえばTheorem1と4が重要と判断してTheorem2,3は削られています)。
Section1についてもSection2についても先に定義や主張を書いておいて(その時点で仮に使っている表記が未定義だとしても一旦気にせずにそれを書いてしまってから)、それを理解するのに必要な最低限のnotationをすぐその下に書く順番になっているのが個人的なポイントです(使う文字などをすべて丁寧にセットアップしてからstatementに入るのに慣れすぎていると最初は気持ち悪いかもしれません)。
なお、この時点で細かい意味をちゃんと理解しておく必要はありませんが、notationや定義をファイルに打つときに出てきた疑問などで数分考えられば分かるものなどは解決しておきます。
手順5:ここまで書いた内容について解釈などを補足する。
ここまでの段階でnotaiton、定義、resultsなどをまとめたわけですが(ちなみに、notaionと定義という単語の使い分けはあまり分かっていませんが、今回の記事に関していえばnotationがsettingに近いかんじのニュアンスで使っています)、なんとなく意味が理解できていてもそこまで「しっくりきている」というかんじではないと思うので、ここで解釈などについて自分なりに考えたりして、「そうやって理解すればいいのか!」というポイントを思いついて打ち込んでいきます。必要に応じて本文の説明などをちゃんと読んだり、自分で例を作ったりして、ここは自分の頭で考える必要があります。
手順4までの段階で論文の全体像が見えていたり、ここに重要そうなことが書いてあるなってのが見えていたり、このポイントは考えないとダメだなということがいくつか見えているはずなので、その中から時間と相談しながらいくつかのポイントについて考えるかんじです。
手順6:Proofも読んでいく(トリックが何かの視点を大事にする)。
実際には手順5の時点では解釈を考えるためにProofを読んだりしていたり、手順6をやる中で解釈が分かることも多いですが(手順5との前後関係は厳密ではありませんが)、次に必要なProofを読んで、Proofそのものを打ち込んだりProof Ideaを書いていきます。ただしそこまで精読が必要ではない論文の場合にはProofは眺める程度にして手順7に移ります。
指導教員からは「Proofをすべて丁寧に追うのではなくてそのProofのトリックが何かを考えるように」と言われているのでそれを意識しています(Main Resultが本当に正しいか証明を確認するみたいなかんじではなくて、Main Resultを成り立たせるからくりの要を明らかにするみたいなイメージを持っています)。
このあたりでは構成は本当に読んでいる論文によるのでなんともいえませんが、
資料のタイトル
1:Setting
・最低限のnotationや定義
2: Main Result (不可能性定理)
Theorem1:ーーーー
・Theorem1の理解に必要な定義 a
・解釈のポイント
・Theorem1の理解に必要な定義 b
・Proof Idea of Thorem 1
3: Main Result(可能性定理2つ)
Theorem3:ーーーー
・Theorem3の理解に必要な定義
Theorem4:ーーーー
・Theorem4の理解に必要な定義
4: 今回のframeworkとーーの関係
・ーーー
・ーーー
5: Theorem3と4のProofで重要なLemma
・Lemma1
・Proof of Lemma 1
・Lemma2
・Proof of Lemma 2
みたいなかんじが一例かと思います。セクションタイトルだけ読めば構成がすぐ分かって、各セクションにおいてその主張がはっきり分かるのがポイントです。Section4についてはこの論文特有の何か重要なポイントがあったのだと思います(この辺は柔軟にやっていく)。
手順7:資料として完成させる。
あとは自分が半年後に見返したときに分からなくならないように補足的な文章をいれなりして仕上げます。また、「なんか全体的にちょっといけてないよなぁ」と感じる場合には、資料の構成が今までの癖をひきづっていることもあるので、「結論が早く知りたがるタイプの先生がいたとして、その人に渡せる資料になっているか」という観点から構成を再調整したりします。
これで完成です。
実際には上の手順を厳密に守るわけではないですが(例えばMain Resultが多くて4つあるときにそれらを見極めた後に全部を一気にTex打ちせずに2つずつペアにしてまずは前半の2つをTex打ちした上で関連するnotationも確認してそこも書いてしまってから後半の2つに移ったり、気力がないときには単純作業としてでnotationを先にtex打ちして気合いを徐々に入れることも割とありますが)、「OverleafとMain resultを中心とした読み方」というのは意識しています。
これまでアブストやイントロをある程度頑張って読んで、notionもかなり丁寧に読んでいくみたいなスタイルを取っていた頃はそれが終わった時点で集中力が切れていましたが、このやり方にしてから同じくらいの時間でMain Resultとそれを支えるnotationを打ち込んだ上で解釈を検討するくらいはできるようになりました。なおイントロなどは飛ばしましたが、結局この手順が終わってから読みたかったら論文全体を通して読めばいいだけなので(内容把握できているのでスラスラ読める)そこは大丈夫です。
Fin.
やっぱりVRだと思うんです、一番面白いのは。
なぜか分からないけど僕は昔からVRに惹かれています。
こう書くと家にVRの機器を持っていたりするのかと思われそうですが、そんなことはなくて実際に使用したのは秋葉原の店頭で数回体験した程度です。
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でもなぜか高校生くらいのときから、「VRってなんかワクワクする技術だよなぁ」という感覚がずっと消えずにあります。他の新しいテクノロジーに対しては(例えば仮想通貨に対しては)面白いとは思ってもこのような感覚が残り続けることはないのでなんでVRだけ自分にそう感じさせるのだろうと少し不思議です。
あえて言語化してみると、やはり「新しい世界が作られるかんじ」に惹かれるのではないかと思います。
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さて、僕は1時間ほど前までPCである映画を視聴していたのですが(映画を見終わったのは深夜0時半くらいでこの記事を書いているのは深夜1時半付近です)、その映画がとても良かったので、視聴後すぐに明日以降のためにネットで映画の一覧を検索していました。そして、その時に改めて感じたのですが、映画ってほんとうに多彩な世界観なんですね。
・繊細で美しい日本のアニメーション映画。
・カオスで華やかなインド映画。
・壮大なSF映画。
いやー、ほんとすごい。どれもそれぞれに違った独自の魅力がある。1つ1つについて簡単な説明を読んだり予告動画を見ただけですが、心が躍りました。
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その中でも特に気になった映画は、ゴッホについての映画です。ゴッホの絵画風の作画(1つ1つを油絵で描いた世界初の映画らしいです)でゴッホの生涯を描いた不思議な映画とのことですが、その映画の説明動画を見ているときに、ふいに、「このゴッホの絵画の世界にVRで入ってみたいかも!」と思いました。
「ゴッホの絵画の世界に入って散歩とかできたら絶対楽しそうじゃん。きっと、めっちゃ素敵だよね」みたいに思ったんです。そう思ったら次の瞬間には、「さっきの日本のアニメーション映画の世界にVRで入れたらそれもやばいな。美しい世界観すぎてとんでもない感覚になるだろうな」とか、「このSF映画も壮大すぎてすげーだろうな!」のように、 (より高性能になった)VRによって実現しうる体験に妄想がどんどん進んでいきました。
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これからの数十年で社会にはテクノロジーに起因した様々な変化が起きると思います。本格的なVRの実装はその中でも割と行われる可能性が高いことな気がしますし、それを想像するとすごくワクワクします。直接的にせよ間接的にせよ何かしらの形でその実装に携われたりしたら楽しそうです。
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こんなかんじで映画とVRに妄想を広げた僕は、「未来はやっぱりVRだぜ!」というテンションになってしまい、もう寝ないといけないのに困ってしまいまい、ひんやりした風を求めてベランダに出ました(これがつい数十分前のこと)。
外をみると薄暗い街灯が並んでいます。
音はあまりなく落ち着きます。
風も予想通りいいかんじです。
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そこで、ちょっと冷静な気分になりました。
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そしてまだ身体にじんわりとした熱を感じながらもいくらかクールダウンされた頭で、誰も歩いていない道路を眺めていたら、「なんかこれもいいな」と思いました。
なんのとりえもないただの道路。さっきまで妄想していたVRとか映画とかの世界とはまるで違うのですが、なんかこれもいい。
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このとき、ある短い俳句を思い出しました。
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「まっすぐな道でさみしい」
(種田山頭火)
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これだけの短い俳句。でも逆にこの文字数の少なさが、色々な感情を想起させる傑作だと思っています。ベランダから深夜の道路をみていて、この句を思い出した僕の頭には、先程映画を見たときと同じくらい素敵な感覚がじわっと広がってきました。
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これはささやかだけど、大事な発見でした。
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VRにワクワクする、これは正直な気持ちです。そして、この気持ちはこれからも大事にしていくつもりです。でも同時に、俳句などの情報量を極限まで削った表現方法であったり、目の前にあるなんのとりえもないような道路などの現実にも同じように捨てがたい魅力があるのもたしか。
そこに目を向けずに、「VRに未来を感じぜ!」と熱中するだけではなんとも勿体ないというか、俳句とかの素晴らしさにも目を向けるからこそVRの良さも本質的に把握できるような側面があるのではないか、そう思いました。
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「これからはテクノロジーの進化がさらに加速度的に進んでいく」という意見をよく聞きますし、実際にそうなっていくのではないかと思います。でも、きっとそのような変化の時代で意外と肝に大事になってくるのって、逆説的だけど俳句とかの表現方法だったり、なんのテクノロジー感もない一場面を大事にする心だったりするのかもしれません(メインストリームとして肝にはならなくてもそこを差別化の力にするストラテジーはあり得るのではないかと思います)。
Fin.