守破離はいいと思うけど一番最初は「守」ではないと思う。

僕は独自のやり方を採用するのが好きな人間です。

そうするとよく「守破離(しゅはり)という言葉があってだね。まずは既存の型を守る。そして次に自分なりの工夫をして型を破る。最後に型から離れて独自のやり方を創る。この順番での成長が大事で、最初から独自のやり方をするとそれはただの型なしだよ」という指摘を受けたりします。

昔からこういう指摘をされると「たしかにそうかもな」と思いつつ「んー本当にそうかな」とちょっとモヤモヤしてきました。今回はそれについて自分の考えがまとまる機会があったので書いてみようと思います*1

まず、学問をやっていれば先人の知恵を学ぶことにすごく多くの時間を費やすわけですし、僕もここ3年以上は経済学における先人たちの素晴らしいアイディアに触れることにかなりの時間を費やしてきました。そのため、「既存の型を身につけることの大事さ」はある程度理解しているつもりです。そのような経験もあって、僕は基本的には守破離に賛成です(守破離という手順は多くの場合には有効だろうと思っています)。

ただ、「守破離」に賛成ではあるけれど、「最初は型に従順であるべきで独自路線を試すべきではない」とは全く思いません。ここがややこしいポイントだと思います。守破離には基本的には賛成だけど、最初から我流もある程度入れておくべきだと思っています。そしてそれは「型のすごさ」をちゃんと掴むためです。高いレベルで「守」を達成するには「独自路線を試す」プロセスがある程度あった方がいいのではないかと思っています。

例えば、長い文章を書く時に「見出し」をつけるというのは1つの型だと思います。教科書とかにも基本的には見出しがついています。ただ僕は前に数学に関するブログを書いたときに、あえて見出しをつけませんでした。見出しをつけない方が臨場感があるかなと思ったからです。しかし結果、出来上がった記事はとても見づらいものでした。

ただこのように我流に従って失敗した結果、「こういうタイプの記事には適宜見出しをつけないと、こういう風にカオスになってしまうんだなぁ。見出しをつけるのはたしかに大事そうだ」のように、実感を伴って「見出しをつける」という技法の効果を理解することができました。それ以来、同じタイプの記事を書くときには「見出し」をつけるようにしています。

ここでのポイントは、型に従わずに失敗した経験があった方が、最初から型に従っていた場合よりも、「見出しをつける」という型についての理解の解像度が高いだろうということです。特に「型に従わなかったときにどうなってしまうのか」を実感を伴って理解できるのは大きいと思いますし、また場合によっては「型に従うとここが上手くいかないのか、あ、だからこの型はこうやってできているんだ」のように「型を作った人の気持ち」を理解できることもあるように思います。

ということで、いまの僕の立場としては、守破離には基本的には賛成ではあるけれど、「守」のプロセスについてはもう少し解像度を上げた方がいいと思っていて、「守」のプロセスの中に「独自路線を試してみる」を上手く入れ込むことで、実感を伴って「型のすごさ」を理解できる。むしろ従順に型に従っていると「型のすごさ」を本当の意味では理解できないことが多いのではないかと思っています。

また別の理由として、「独自路線を試してみる」を定期的に入れない人に最終的に「破」であったり「離」だったりができるのかなという気持ちもあります。メンタリティーの観点からも、「守破離」を本気で目指すのであれば「守」のプロセスの中にく独自路線を試すことを組み込むと良さそうだなとも思います。

「守破離」を尊重するからこそ最初に「独自路線」を試す。

もちろん、クライアントがいるような仕事において初心者が最初から独自路線試すのはやめた方がいいんじゃないかなとは思うで(また、輪を乱すなという意味で「守破離は大事だよ」と言われることもあると思うので)色々と塩梅は難しいですが、こういう基本スタンスもありかもしれません〜。

Fin.

*1:具体的にはある方が「僕の仕事人生においてこの5年間は守の期間だった」とおっしゃっているのを聞いて、「自分の経済学における勉強においてもいまはまだ守の段階にいる気がするし、"守”の期間ってのは1ヶ月とかではなくて数年とか数十年とかであることも多そうだな。むしろたぶんもともとは武道とかの言葉な気もするし、そのくらいのスパンで考えるのに適しているような言葉な気もするな。そのような場合には守のプロセスも長いわけで、その中にグラデーションがあっても良さそうだ」と思ったことがきっかで「守破離」のモヤモヤについて考えてみました。