中学校のベランダとaggregation(集計)

 

中学校の3年間で一番衝撃だったことは何かと思い返してみると、教室におけるあの場面だったかもしれない。

中学一年のときの教室はたしか4階にあった。たぶんあの日は入学してからそこまで日が経っていなかったんじゃないかな、休み時間に教室のベランダで友達と雑談していた。これ自体はよくある光景。

しかし、雑談をしている最中にふと目線を上に向けると、同級生のO君がベランダの手すりの部分に後ろ向きに座っていた。これ伝わるかな。本当にちょっとでも背中を後ろに倒したら4階から真っ逆さまに落ちてしまうような体勢。ジェットコースターすら苦手な僕からしたらあり得ない体勢だった。

何より、O君が涼しい顔をして座っていたことに驚いた。かっこつけるのではなく、本当に何も感じていない様子で、まるで自分の椅子に座るかのようにベランダの手すりに座っていた。O君の「心の底から手すりに座ることに対して何も感じていない様子」が印象的だ。

 

おそらくそれまでの自分は、「クラスメートには色々違いはあれど、生物としては同じ人間だし大差ないっしょ」くらいの感覚だったのだと思う。しかし、O君を見ていたら「脳の構造がまるっきり違うんじゃないか。O君と僕では、ベランダの手すりに座るという体験は丸っきり違うものなんだ。比べられるものではなくて質的にまるっきり異なる」と感じた。

僕が感じる怖さは1000だけどO君が感じる怖さは500なわけねみたいな違いではなくて、そこには「比べることすらできない質的な大きな違い」があるように感じたわけだ。

 

それから10年以上が経って、僕はいま「社会的選択理論」という分野を専攻している。この分野ではよく「人々の意見のaggregation(集計)」について考える。選挙の候補者に関する人々の意見をどうaggregateするか(多数決など?)なども考えるし、僕は扱ったことがないけど「社会として採用すべきリスク態度(リスクの許容度)はどのように個人のリスク態度をaggregateして決定されるべきだろうか」なども議論の対象になり得る。

 

そして例えばリスクについて扱おうと思ったら、[0,1]の閉区間でも用意してあげて、僕は1で表されるようなすごくリスクが怖い人間で、O君は0で表されるようなリスクをなんとも思わない人間であるとしてモデリングしたりする(これはさすがに粗いセッティングだけど)。そしてこういう数学的モデルとして定式化するとどうにも僕もO君もリスクについて数直線上で繋がっているような気持ちになってくる(そして例えば平均を考えるという操作はそれなりに意味があるように思えてくる)。

でもそこでO君のことを思い出すと、例えば僕とO君でリスクについての意見をaggregateするってのがどういうことかよく分からないし、そもそも僕ら2人の間でのリスク態度をaggregateするのが適切だという気もしなくなってくる。なぜなら僕らのリスク態度は水墨画とカラフルな洋画くらい違うものに感じるからだ。水墨画同士なら平均的な「黒さ」みたいなものを考えたくはなるが、水墨画とカラフルな洋画では別のものとしてそのままにしておきたくなる。もっといえばバナナと飛行機くらい違うものに感じる。

もちろんaggregationすることに関する正当化も思いつきはするけど、O君のあの時の涼しげな顔を思い出すと自分たちがやっている手法を冷静に見られる気がする。僕らの間には大きな断絶がある。aggregationなんてしていいのかしら?


Fin.