「大学院で経済学をやっています」と言っても色々なタイプがあって、僕は円安とかインフレとかの意味が1mmも分かっていないし、分からなくても困らない分野にいるんだけど(経済学のそれなりに多くの分野ではそう)、自分がやっているミクロ理論の何が楽しいって、自由に概念を作るところだと思っている。
「経済」について知るのが楽しいというより、自由に概念を作るのが楽しい。
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そこで今回は、最近気になっている、自治体の出生数(or出生率)増加計画について、実際に「自由に概念を作る」ってことをやってみようと思う。
僕が気になっているのは、「我が市の出生数はこの施作により予想より100人増えました」のような言明を見るとき。たしかに100人増えたのかもしれないけど、本来だったら他の市で子どもを産もうと思っていた人がその施作に惹かれて移住して子どもを産んだ場合は、別に日本全体で見たら出生数上がっていないじゃん。他の自治体とのパイの取り合いに勝っても出生数は増加するだろうし、そうではなくパイ全体を拡大しても出生数は拡大するだろうし、このあたりをどう考えたらいいのだろうと思っていた。
しかし、このへんを議論するための上手い概念(言語)を知らないから思考を進めることができなかった。そこで自分で概念を作ってみることにした。
なお、経済学や他の学問において、出生数についてどういう議論がされているかなどは僕は全く知らず、また調べてもなく、この記事では、僕が気になっている「パイの奪い合い」の観点から自治体の出生数の増加計画について考えるための概念を整備していくことのみを行う。
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やりたいのは、自治体の担当者(それなりの大きさの自治体ということにしておこう。離島の人口計画などを立てるのであれば作るべき概念は異なるはずだ)が出生数の増加計画について考えるための概念作り。もっといえば「でもこれってパイの奪い合いになっているだけじゃね」のような懸念を普段の単なる出生数での評価に対して持っている担当者が思考を進めるための概念整備である。
特にやりたいのは、「パイの奪い合い」における「パイ」を定義すること。「全体の取り分」のような概念だが、今回の文脈においてはどのように「パイ」を定義したら良いだろうか?
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まずは土台となる「設定」を作っていく。いまから作る設定はかなり単純化されたものであるが、今回はその設定のもとで「パイ」という概念を定式化することになる(実際には「パイ」という概念ではなく「単純パイ」「日本にとってのパイ」などの概念を定式化することになる)。
いま自分はA市の担当者で2024~2030年にかけて実行する計画を立てるとしよう。
2024〜2030年に実行できる計画の候補をとする。この中からつの計画を選ぶことになる。
また、日本にはA市とB市とC市の3つの自治体しかないことにしよう。これは単純化の仮定であり、B市を「A市以外でA市と同じ都道府県を1つにまとめたもの」、C市を「A市とは異なる自治体を1つにまとめたもの」と解釈することもできる。ただし、ここでは一旦3つの自治体だけが日本にあるケースとしてイメージしておく(もちろん"外国"を設定に入れ込んでも同じように議論することはできる)。
ここで、各自治体には「標準的な計画」があるとしよう。A市にとって標準的な(例年通りの)計画はであるとする。そして、B市とC市はそれぞれにとって標準的な計画を、としてB市とC市はそれらに従うことが確定しているとする。これも単純化のための仮定であり、B市とC市がどのような計画を採用するか完全には分かっていないが、「だいたい例年通りこんなかんじだろう」と考えられる状況を表している。自分たちだけが何か特別なことをやろうとしている状況である。
ここまでをまとめると、自分の担当はA市で、日本には他にB市とC市がある。A市が採用しうる計画はで、B市とC市は「例年通りの計画」であるとに従うことになっているとする。
そして、A市がに従った場合に、2024~2030年の期間にA市で生まれる人数を、B市に生まれる人数を、C市に生まれる人数をとする。
また、2031~2050年の期間にA市で生まれる人数をA'(a_0)、2051年~2070年にA市で生まれる人数をとする。同じように、、、も定める。例えばはA市が標準的な計画を実施であるを実施したときに2051年~2070年にC市で生まれる人数を表す。同様に、例えばはを実施した場合に2024~2030年の期間にB市で生まれる人数を表す。
ここまでで「パイ」を定式化するための準備が整った。なお、2071年以降の出生数については無視してしまっており、また2031年~2050年のような割と粗い区分で考えている。これらの単純化についてはここでは特に深く考えずに行なっているが、2071年以降の出生数についてもしっかり考慮するべきであるという立場であれば組み込めば良いし、区分についてもより細かいものを採用しても良い。
これらの設定のもとで、「パイ」を定義していく。
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Definition1
を実施したときの単純パイとは、
のことである。
つまり、上の表におけるつの数字を全て同じ重みづけで足し合わせて合計が「単純パイ」という概念である。「全体の取り分(利益)」のようなニュアンスである「パイ」という言葉のこの文脈における1つの定義である。同じようにを実施したときの単純パイ、を実施したときの単純パイなどの概念も作られる。
Definition2
が単純パイ縮小的であるとは、
を実施したときの単純パイよりも、
を実施したときの単純パイが小さいことである。
標準的な計画であるを実施したときよりも単純パイを縮小するような計画は単純パイ縮小的な計画と呼ばれ、同様にして単純パイ拡大的な計画も定義する。これらの定義により、「自身の取り分は多くなっているけど全体のパイは小さくしてしまう」のような日常的な表現についてより厳密に考えられるようになった。
しかし「自身の取り分は大きくなったが単純パイは縮小させてしまった」となっても、そもそも「単純パイ」を重視すべきなのかはよく分からない。
単純パイについては(1, 1, 1, 1, 1, 1, 1, 1, 1)という重みづけで構築した、つまりのように計算したが、日本にとっての重要度はそうではないかもしれない(日本の存続を考えたときの重要性はどれも平等にという重みではないかもしれない)。例えば、日本の存続のためには、2028年に生まれてくる人が1人増えるよりも2038年に生まれてくる人が1人増える方がよかったりするかもしれない(少子高齢化が緊急的であれば子どもにはなるべく早く生まれてきてほしいなど)。
そこで、「日本」にとっての重要度がになっていると合意が取れていると仮定する(2024~2030年にA市で生まれる人数の重視度は1に基準化されている)。もしくは合意は取れていないが、A市は上のような重要度を日本全体としては採用すべきであると考えているとする。ここではA市とB市とC市が共有で合意している「日本全体」を考えたときの重要度の重みづけが存在するとして、それをで表すとしよう。*1
年代が同じであれば子どもがどの市で生まれても日本全体としてもその重要度は変わらないと考え、また年代が異なれば基本的には早く子どもが生まれてきてくれた方が日本にとって嬉しいと考えるのであれば、典型的にはその重みづけはのようになる。
実際にはA市の担当者が「日本全体の利益」を考えるのであれば、こういう重みづけで考えるのがいいだろうなと決定する。A市の担当者がと決めたとして話を進める。
Assumption1
「日本」にとっての重要度は=と特定されているとする。
また、考えやすくするために次の仮定も置いておく。
Assumption2
A市が自身の利益だけを考えるのであれば、
を最大化したいと仮定する。
B市とC市についても同様。
単純パイという概念はベンチマークとしては役立つが、実際に政策を考えるときには次の定義が役立つことになる。
Definition3
を実施したときの日本にとってのパイとは、
のことである。
つまり次の表で考えると、「を実施したときの単純パイ」は9つ全てについて1の重みで作った合計、「を実施したときの日本にとってのパイ」は各数字について対応する赤の数字の重みで作った合計である。
先ほどの「単純パイ縮小的」に対応する概念を次に作る。
Definition4
が日本にとってパイ縮小的であるとは、
を実施したときの日本にとってのパイよりも、
を実施したときの日本にとってのパイが小さいことである。
同様にして「が日本にとってパイ拡大的である」という概念も定められ、また「が日本にとってパイ縮小的である」のようにも定められる。
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ここまでで
・を実施したときの単純パイ
・が単純パイ縮小(拡大)的である
・を実施したときの日本にとってのパイ
・が日本にとってパイ縮小(拡大)的である
の4つの概念を作った。
感覚的に使っていた「パイ」という概念を今回の文脈に沿うように丁寧に作った。そしてそのことにより、「パイの縮小」は他の自治体の出生数を小さくしてしまう行為によっても起きるが、未来に生まれてくる人を減らして現在生まれる人を増やすような政策によっても起きうることが見えてきた。
よって、「この政策によって予想より出生数が増えました。そしてこの政策は他の自治体への影響は考えづらいものなのでパイの奪い合いにはなっていません」という言明は怪しく、「他の自治体への影響がないかもしれないが、場合によっては未来にA市で生まれる予定だった人たちが早く生まれてきただけかもしれない」というケース(未来からパイを奪っているようなケース)にも気を使う必要がありそうだと分かった。
気づき1
パイの縮小(単純パイの縮小、日本にとってのパイの縮小)は他の自治体で生まれる人数を減らしてしまう政策によっても起きるが、自分たちの自治体の未来に生まれる人数を減らすことによっても起きる。
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パイの定式化とパイの縮小(拡大)についての定義が終わったので、次に「パイを奪う」に対応する概念の定義を行う。まずは便利な表記を導入する。
表記1
で
で
で
を表す。
この表記を用いて次の概念を定義する。
Definition5
の与奪量とは、
のことである。
の与奪量が正であることは、A市がその計画にしたがうと、標準的な計画よりも他の自治体の出生数が減ってしまうことを意味する。逆に与奪量が負であることは、A市がその計画にしたがうと、標準的な計画よりも他の自治体の出生数が増えることを意味する。
ここまでで一通りの定式化が行えた。これらの定式化により多くの議論を今までよりもクリアにできるようになったはずである。もちろん必要に応じて以下のDefinition6のように細かい概念の調整もできるが(Definition4とほぼ同じ概念ではあるが、Definition4がある1つの計画が「日本にとってパイ縮小的である」とはどういうことかを定めていたのに対して、次の定義ではある1つの計画が他の計画と比べて「日本にとってパイ縮小的である」とはどういうことかを定めており、概念としては異なる)、実際には今までの定式化だけから多くの議論ができるはずである。
Definition6
がよりも日本にとってパイ縮小的であるとは、
を実施したときの日本にとってのパイよりも、
を実施したときの日本にとってのパイが小さいことである。
最後にいくつかの立場について整理しておく。
立場1
A市は計画を選ぶにあたり(2024年~2030年にA市で生まれる人数)を最大化するように考えるべきである。
立場2
A市は計画を選ぶにあたりを最大化するように考えるべきである。
立場3
A市は計画を選ぶにあたりを大きくしつつも、日本にとってのパイもバランスよく大きくするように考えるべきである。
立場4
A市は計画を選ぶにあたりを大きくしつつも、日本にとってのパイもバランスよく大きくするように考えるべきである。加えて、与奪量が多くならないようにすることも考慮すべきである。
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以上のように概念を整理しておくと、例えば以下のような会話や検討が可能になる。
・ある施作についての2030年における事後検討において。
「今回の施作によりを例年通りの施作を打った場合に予想されていたよりも100人増加させることができたと考えられる。また、住民へのアンケートやデータ分析の結果から、やを損なわせたとは考えづらく、についても増加されることができたと考えられる。与奪量についてはこれからの予想も合わせると周辺自治体からの流入要因にもなったため少し正になったかもしれないが、その増加は多くなく日本にとってのパイも増加させたと考えられる。」
・誰かが出してきた案について。
「自治体Fが実施して出生数を増やしたというその施作についてですが、たしかに自治体Fの出生数は増えているようですが、一時的に無理に予算をつけて子育て支援をしたように見受けられ、将来の世代の支援が疎かになる可能性が高く、は増加させましたがやは減少することが予想され、結局は減少させている可能性が高いのではないでしょうか?」
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以上のように、言葉がなかったことで上手く思考ができなかった領域について概念を整備することでクリアに議論・思考ができるようになります。
「自由に概念を作って考えるが楽しい!」のイメージはこんなかんじです。実際のプロジェクトにおいてはきっとその分野の専門家と協力しながら概念を練ることにはなると思いますが、未知の領域についてこのように概念構築をしていけるのは経済学の魅力だと思います(僕は今回の分野についてはまったくの素人で特に何も調べずに考えてみたかんじです)。
Fin.
*1:このように線形で考えられるとするのは、扱いは楽であるが、それなりに強い仮定ではある。例えばがすごく小さいときには、そこから少し増加するのはとても重視すべきだと考えられるが、そのような調整をこの定式化ではすることができない。