OO市という人格、日本という人格

「我が市はこの施策を打ったことで合計特殊出生率が1.8になりました! 」

みたいなニュースを見るたびに、「んーでもそれって他の自治体から子ども産みたい人を奪っただけなら意味なくない?」と感じていました。

もちろんその自治体の目標が合計特殊出生率を単純に上げることだったらいいのですが、「どんなやり方であれ(他の自治体との競争に勝つやり方であれ)合計特殊出生率を上げること自体が良いこと」みたいに語られるとあんまり共感できないなと感じてしまいます。

例えば、子どもを産んだ人には100万円を給付するという施策があったとして、その施策によって、その施策がなかったら子どもを産まなかった人が子どもを産んだっていう話と、その施策がなくても他の市で子どもを産んだ人が100万円欲しさに引っ越してきてその市で子どもを産んだっていう話では、日本全体にとっての嬉しさという意味では違いそうです。

この、「パイの奪い合いで勝てるようになった効果」と、「そもそもの全体のパイを広げた効果」の2つをどう適切に区別して扱うかは大事な問題だと思います。ただ、今回はこれにダイレクトにはアプローチしません。

今回注目してみたいのは、「我が市にとって」という概念、「日本全体にとって」という概念です。もう少し丁寧にいえば、「OO市という人格にとって」という概念と、「日本という人格にとって」という概念です。

「法人」という言葉が示すように我々はしばしば会社などの組織を、あたかも人のように扱います。「我が社の意思としては」とか「うちの会社としては賛成です」とかも日常的に使うように思います。選挙についても、国という人格の意思をさぐるためのものとして見ることもできるでしょう(違う見方もできるけどね)。

家族、自治体、国など対して、その「人格」があると想定してみる(そういう世界観に立ってみる)。これは我々がよく行っていることであり、組織をあたかも1つの「人格」を持つ主体として扱うアイディアは1つの発明だと思います。

もう少し解像度を高くしてみると、「OO市という人格」と「日本という人格」はそもそも構成している人が違っているはずで、OOという人格を構成しているのはOO市に住んでいる人全員、日本という人格を構成しているのは日本に住んでいる人全員っていう世界観だと思うのですが、それだとそりゃ構成している人たちが違うから2つの人格の利害が一致しないこともありますよね。

つまり構成する人が違うから、OO市としては望ましいけど日本としては望ましくないとか、OO市としては望ましくないけど日本としては望ましいみたいなことが起きます。大きな利害の相違が起きることもあるでしょう。これをなんとかすることはできないかな。今回はここに注目したいです。

ポイントとしては、組織の「人格」って人間が作った(想定している)ものにすぎないわけで、これいじってもいいよね。「OO市という人格」を構成しているのがOO市に住んでいる人でなくてもよさそう。どこだったか忘れちゃったけど、羊が多い自治体だか国だかで、「羊」にも投票権があると想定した制度を考えたみたいなのなかったっけ。

あれも要は、「組織の人格」って概念を揺さぶっている。もっといえば、一般的な意味での「日本という人格」に対して、「自然環境」という人格を合成してメタな「日本という人格」を作ったりもできそうです。

組織に人格を想定するという偉大なアイディアをリスペクトした上で、「その組織の人格を構成するのはその組織に属する人たち」という世界観は揺さぶる。これ面白いと思っています。

既存の経済学の研究においても(これに関連する分野には詳しくはないけど)、どうやって構成員たちの意見を集計するかっていう視点の研究は多そうですが、構成員をそもそもいじってしまおう、場合によっては人間以外のものも構成員としてい入れてしまおうという発想は見たことがありません。

例えば、A国とB国の戦争っていう話も、A国という人格とB国という人格があると想定した上で話を進める(そこを固定したものとして話を進める)と見えてこなかった解決策が、そもそもの「人格」の部分をいじると見えてくるかもしれません。

A国の議会の10%とB国の議会の10%の人員を入れ替えてみるとか。それだと単純すぎるけど、なんかこのへんって単発の面白いアイディアは出てきているけど、原理的なの転換はまだちゃんとは考えられていなさそうで、深堀すると楽しそうです。

自治体に話を戻すと、「合計特殊出生率が1.8になりました!」をどう考えるか問題については、「OO市にとっては」と「日本にとっては」の間の乖離がモヤモヤの源泉っぽい。そうすると、その2つの概念を区別するような指標を考える方向などの解決策もありそうだけど、根本的なところにアプローチしたいのであれば、「OO市という人格(OO市の意思)を構成するのはOO市に住んでいる人たちだけである」という世界観から崩していく方向もありそう!

もちろんこの話の難しさとして、

1:OO市に住んでいる1人1人に注目すると各個人は「OO市に住んでいる」以外にも「日本に住んでいる」とか「サッカーファンである」とか色々な側面を持っている。

2:OO市という人格がOO市に住んでいる人だけから構成されるからといって、必ずしもOO市という人格がOO市のメリットだけを考えるわけではない。例えばOO市の住民全員が日本全体の利益だけを考えているなら何か問題はあるのか。

などはあります。

どう考えたらいいのか難しいですが、「(組織の)人格」という概念のデザインを考えるのはとても楽しそうだし、ちゃんと扱うには実は上記のような難しさがあり、そのチャレンジングさもいいなと思います。

個人と個人の争いについては、自分の人格は自分のものだし、相手の人格は相手のもので、私の意識とあなたの意識っていう根源的な断絶がある気がしますが、組織と組織の争いについてはそこの断絶って「アイディア」次第で柔らかいものにできる気がします。未来では、自治体、会社、国などの概念がもっと柔らかいものになっているんじゃないかな。

Fin.