駐輪場で「優しさの理論が必要だ!」と思った話。

いつも駅前の駐輪場を使っている。

前は月単位で違うところを借りていたのだけど、コロナがあってから誰でも好きなときに駐められるタイプの駐輪場を使っている。駅のすぐ前にあって広いし結構いいかんじ。


で、この駐輪場には、3人くらいのおじさんがいて自転車の整列をしてくれている。

朝の整列が必要な時間だけいらっしゃるのか、帰ってきたときには基本的にいないのだけど、朝はいつもいると思う。

それで、このおじさん達はめっちゃいいかんじの人たちで、最近は僕は自分から挨拶するけど、最初のうちは駐輪場に入っていくといつも向こうから「おはようございます!」と言ってくれて、さらに駐輪場を出て駅へ向うときには、「いってらっしゃい!」と言ってくれていた。しかもなんと、3人が3人とも毎回挨拶してくれるんだよ!

こんなの嬉しくなっちゃうよね〜。

それもあってこの駐輪場は気に入っている。ただおじさん達と顔見知りになればなるほど気になるのは、僕が自転車を駐めると、いつも一番近くにいるおじさんがきて自転車の位置をちょっとだけ調整してくれること(これはたぶん誰に対しても調整している)。

「手間をかけさせてしまって悪いなぁ」と思っていて、どうやったらおじさん達が調整しなくてすむようになるか考えて色々と隣の自転車との距離の詰めかたとかを変えたりしてみたのだけど、やっぱり調整してくれているんだよなぁ。

そこで今日は、「よし、思い切って、自分の駐め方のどこが悪いかを聞いてみよう!」と思いたった。「駅にいくたびに会うのが楽しみなおじさん達に手間をかけさせたくないからね」と思って、思い切って聞いてみることにした。

よ〜し、今日は自転車と駐めておじさんが調整しにきてくれたタイミングで話かけるぞ!







実行しかけたときに気づいた。





「これってほんとうに手間なのかな?」

いや実際にどうかは分からないけど、自転車の位置を調整する作業は一見めんどくい作業に見えるけど、意外とどうだか分からないぞって。

よく考えると、おじさん達は少なくとも数時間は駐輪場にいるわけで、もし自分がその立場だったら、むしろ作業があった方が気が紛れていいかもしれない。これはどっちの可能性もあるよね。

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そう気づいたときに、

「うわ〜自分が優しさだと思った行動は実は全然逆効果で優しさでもなんでもなかった可能性があるわけだなぁ」と思った。

ただこれが今朝の一番の気づきではなくて、正直こういう「むしろ逆効果かも」っていう気づくことはそれなりにあるわけで、「あ、今回も逆効果パターンの可能性があるぞ」と気づいただけでは大したことではないのだけど、今回はこれまでとは違って、

これ理論の方がおかしくね?

と思った。

おじさん達がどう思っているのであれ、この行為を無条件に”優しくない”って判断するような優しさに関する理論があったとしたらそれはおかしいだろって気がしてきたわけだ。

主人公を僕ではなくて小さい子に変えてみる。もしその子が、僕がやろうとしていたみたいに駐輪場で手間をかけさせないようにおじさんにどうしたらいいか聞いている場面に遭遇したとして、仮におじさんたちとしては「むしろ自転車の調整作業はあった方がいいものだ」と思っていたとしても、その行為を”優しくない”とジャッジしたいだろうか?

僕はしたいとは思わない。

そうジャッジするようでは優しさの理論の方がダメだ。つまり「ありがた迷惑」だからと言って優しくないと無条件で判断したいわけではないはずだ。

僕は「あ、これはありがた迷惑だったかも」と思ったときに、「ということは自分の行為は優しいものではなかったな」と思ったけれど、ちょっと立ち止まって考えると、自分の頭の中にある「優しさに関する理論(もちろん言語化などされていないけど)」に大きな更新の余地がある気がしてきた。優しさって大事にしたいテーマなはずなのにこれではダメだなと思ったわけだ。

そもそも、自分の頭の中にある単純な「優しさに関する理論」においては、「ある行為が優しいとは、ーーーーという条件が成り立つことである」という形式になっていたのだけど、ここからして変だ。

同じ行為でも、「おじさん達にとって自転車の位置調整は手間である」という予想に基づく場合とそうではない予想に基づく場合では意味合いが全然違ってくるだろう。

また、予想と行為が同じでも動機が違えば意味合いが大きく変わることもあるだろう。例えば、子どもがアイスを食べたがっているという予想のもとでアイスをあげるという行為をするのでも、「子どもの笑顔がみたい」という理由のときと「子どもを甘やかして育ててこの子の非認知能力を下げよう」という理由のときでは様子がだいぶ異なる。

そう考えると、「予想pと動機mと行為aのペア(p,m,a)が優しいとは、ーーーーという条件が成り立つことである」のように行為だけではなくて状況認識や動機などと合わせて優しい/優しくないを定義した方がいい気がしてくる。

 

もしくは「行為aが予想pの下で優しいとは、ーーーーという条件が成り立つことである」のような形式もいいかもしれない。つまり、「この予想のもとで(おじさん達は自転車の位置を調整するのを手間だと思っているという予想のもとで)、この行為をするのは優しい」みたいな形式。

一度このように考えだすと、他にも、その予想についてしっかりそれが間違っている可能性も考えたかも判断材料にするというアイディアも出てくる。その人がその状況において求めらるレベルで「自身の予想に関するチェックを行なっているか」などに注目するということだ。

 

このようにすると、小さい子が「おじさんたちにとって手間だろう」と単純に予想するのはしょうがないけど、大人がそう単純に予想してその上で行動するのは浅はかであり前者は優しいと判断されるけど後者はされないみたいな扱いができたり(このような扱いは単純に予想、動機、行為の組について上のように定義するできないはずだ)。

色々なアイディアはでてくるが、実際に納得的な「優しさに関する理論」を作ろうとしたら、いっぱい考えるべきことがあるだろうし、特にどの場面での活用を狙っているかによって詳細は変わってくるだろう。今回はそこには入っていかない。

 

この記事で書いておきたいのは、

優しさに関して解像度を上げるような理論(言語)を作るのは必要なことかもと思ったということ。

 

優しさは大事なテーマだと思うけど、現状だと(僕の頭の中にあったものではすくなくとも)ガバガバ。そしてこのままの「君の行為はありがた迷惑だから実は優しい行為ではないんだよ」としてしまう理論では悲しいし、かといって緩い基準でなんでも優しいとしてしまって、優しさのすれ違いを横行させてしまいそうで理論として問題があると思う。

なんでもかんでも理論(言語)を整備すればいいってわけではないけれど、優しさについてはもう少し理論(言葉)を整備してあげて解像度をあげた方がハッピーかもと思いました!

Fin.