「芸がない」っていう観点。

囲碁から学ぶことは多い。

僕は趙治勲(ちょうちくん)っていう棋士の先生のファンなのだけど、この前趙先生がある対局を解説をしている動画を見ていたときに、印象に残ることを言っていた。





「この手は本当はこっちの方が勝ち負けとしてはいいはずなんだけど、それでは芸がない。だから、この手を選んだのでしょうね。」

囲碁のプロ棋士なんて本当に勝ち負けの世界で、勝ち負けに命をかけていると思っていたよ(実際にそうではあると思うけれど)。それなのに勝ちにこだわるのではなく「芸がある」手を打つ。

でもなんか分かるなぁと思った。

これは人生観の話だと思う。

「芸がない」ってのでは、人生の時間をかけて取り組んでいるのに虚しいってことじゃないかなと思う。違う解釈として、「そのときの勝利を犠牲にしても芸を追求することで、長期的には勝てるようになる」という話もあると思うけど、たぶんそういう「勝ち負け」は超越した話だと思う。

すごく好きな解説だった。






この話を受けて思うのは、「良い知的生産とは何か?」という話だ。

最近は多くのタイプの知的生産にそれぞれの魅力を感じるのだけど、高校生〜学部3年生くらいのときには、シンプルに大事な問いを立てて、それに対してシンプルに答えるような知的生産に憧れていた。皆んながごちゃごちゃ考えているテーマに自分がパッと本質をついたらかっこいいでしょ?

でも、なんとなくそのタイプの知的生産には、「物足りなさ」も感じていた。その正体が分からなかったのだけど、趙先生の解説を聞いて、それは「芸があるか」って話なのかもなと思った。

重要な論点を提示して、それをシンプルに解決する。文句のつけようはないのだけど、なんか心に響かないというか、まさしく「芸がない」。

それはまるで、「囲碁というのは自分の陣地が最終的に大きい方が勝つゲーム。この場面ではこういう理由からこの手を選ぶと陣地が大きくなる可能性が高い。だからこの手を選ぶのが良い。ほらシンプルでしょ。」と主張してばかりの囲碁棋士(が仮にいたらその人)に対して感じることかもしれない。

Fin.