既存の経済学では、循環型経済など『次世代の経済』について語れないのか?

この記事は、「既存の経済学では循環型経済など『次世代の経済』について扱えないのでは?」と感じている方を想定読者としています。

僕の周りにはそのようなイメージを持っている方が一定数いらっしゃる気がしていて、それについて思うところを書いてみようと思います(経済学側もちゃんと説明していないことが多い気がするので丁寧に書いてみようと思います)。なお、経済学には多くの分野があり、僕が専攻しているミクロ理論は「自由にモデルを作ろう」という気概が強い分野だと思うので以下の見方はそれなりに偏っていると思いますが、1人の院生の素直な意見として読んで頂けると嬉しいです。

手法的には「扱えないわけはない」

まず結論からいうと、『次世代の経済』を扱えないかどうかでいえば(分析したりそれに関するコンセプトを整理したりできるかでいえば)既存の経済学の手法で扱えないわけないじゃんという感覚です。

例えば企業の行動をモデル化するときに、
Case1:\max_{x\in X}\ p(x)

とすれば(ここでp(x)xという選択肢を企業が選んだときのその企業のprofitを表します。つまり上の式は企業は取りうる選択肢の集合Xの中でprofitを最大にするようなxを選択するというモデルです)、この企業は利益を最大にするように行動することになります。たしかに経済学においてはこのように企業の行動をモデル化することは多いです。

しかし、以下のように修正すればまるで話は変わります。

Case2:\max_{x\in X}\ p(x)-c(x)

ここでc(x)xを選択したときの地球環境への負荷の度合いとします。このようにモデル化すればこの企業は自社のprofitと地球環境への負荷の度合いを同等に考慮する主体としてモデル化されることになります。エシカルな企業が数式としてモデル化されたわけです。

次に符号だけ変えて、
Case3:\max_{x\in X}\ p(x)+c(x)

とすると数学的には符号を変えただけですが、意味合いは大きく異なり、この企業は自社のprofitを重視すると同時に、地球環境への負荷が大きければ嬉しいと判断するような(とても酷い)企業になります。

つまり何が言いたいかというと、自社の利益だけを重視する企業のモデルも、地球環境も同時に重視する(or損なおうとする)企業のモデルも、どちらも別に(現代経済学が主に依拠する数学的手法の上では)数式を少し変えたり数式の解釈を少し変えればいいだけの話で、表しているものは全然違うにせよ数学的な構造としては大して変わらないので(というか上のケースでは同じといっても良いものであり)、エシカルな企業の行動なども扱えないわけがないというかんじです。

僕の感覚では、経済学がやっているのは(特にミクロ理論がやっているのは)、「数学という言語を使って、考えたい社会の問題について自由にモデルを描いて思考する」ということなので、"思いやり"の観点から経済について考察したいならそのようなモデルを描けばいいし、"コミュニティー”の観点から経済について考察したいならそのようなモデルを描けばいい、と思っています(もちろん実際にはそんな単純な話ではないけど)。

比喩的にいえば、経済学は「絵を描く技術」というかんじだと思います。だけどそのメインストリーム(or中級レベルまでの教科書に出てくる範囲)では主に直線を用いた絵しか描かない。そのため外から見ると、「経済学では直線でないものを描くことはできないわけね」となってしまう。でも実際には「基本的には直線的な絵が多いけれど(利己的だったりするモデルが多いけれど)、別に曲線を用いた絵も(利他性を入れたり、循環という概念を入れたモデルも)技術的には描けるよ」ってかんじかなと思います。

扱えるのは分かったけど扱っている例は?

手法的には扱えるとしても、実際に「次世代の経済」ってかんじのことを扱っている研究があるかについて。僕も経済学の多くの領域を知っているわけではないですが(これは本当にそうです)、『循環型経済、共感型経済』のような話題に(広義の意味で)関連するような研究は相対数としては少ないと思いますが絶対数としてはかなりあります。

例えば「行動経済学」においては「利他性」などに関する研究がとても多くあります。一番簡単な利他性の組み込み方は、例えば1さんの嬉しさの構造が標準的には、v_1(x)のように1さんにとってのvalueであるv_1(x)だけに注目するものであるのに対して、v_1(x)+v_2(x)のようにすれば1さんは自身にとってのvalue2さんにとってのvalueの合計を最大化するものを選びたいような人としてモデル化されることになります。

もう少しいじってみて、1さんの嬉しさの構造をv_1(x)+\theta v_2(x)としてみて\thetaについては2さんが1さんと同じ部族であれば\theta=1となり、敵対する部族であれば\theta=-1となり、それ以外の部族であれば\theta=0を取ることにしておけば、1さんの嬉しさの構造は2さんの属性によって変わることになり(同じ部族であれば2さんの利益を自分の利益のように感じ、敵対する部族であれば自分の損のように感じ、それ以外なら何も関心がないというモデルになっており)、アイディンティティーや差別について考察するにはこのようなモデル化は役立つはずです。

行動経済学のこの辺の話題については大垣・田中「行動経済学」などに色々書いてありますので興味ある方は見てみてください(ただし経済学の中級レベルの知識は必要)。

次に「社会的選択理論」においては、(行動経済学はどちらかというと"人間の行動は実際のところどうなっているか”という観点であるのに対して)、公平性などの観点から「何が適正であるか」についてであったり(公平性などの規範的な研究)、よく問題視されている「GDPなどの経済指標の欠点をどう補うか」などについての研究があります(指標の研究)。

例えば指標の研究としては、途上国の発展度合いについて「経済状況の指標」だけを用いると健康や教育などについての情報が無視されてしまう危険性があるので、「収入」「健康」「教育」の3つの側面からその国の状況を評価するにはどうしたら良いかなどの問題などがここには含まれます。経済学ではこのような研究も行われています。

このように、個人的な感覚では「行動経済学」、「社会的選択理論」あたりが「次世代の経済」に関心がある方にはフィットする領域だと思っており(あとは「メカニズムデザイン」とかかな、、?)、両方ともかなりの研究蓄積があります。

とはいえ、例えば企業のモデル化をするときに大多数の研究では「利益最大化」としてモデル化するのも事実です。研究の絶対数としてはそれなりに多くの研究がそれ以外のモデル化をしてはいますが、基本的には「利益最大化」が選ばれることになります。

これについては風習的な理由もあると思いますが、それ以外にも実は、

そのときに注目したい分析対象が企業の目的のモデル化とあまり関係のないものである場合、例えば情報構造について分析したい場合、企業については「利益を最大化する」とシンプルにモデル化しておいて、注目したい構造について注目できるようにする。比喩的にいえば、物体の移動に伴う色の変化を理論的に考察したいときに、摩擦についてはあまり関係ないので摩擦はないものとして捨象して記述するなど。

という背景で利益最大化のモデルを選択していることもあります。

つまり、経済学のメインストリームである「利益最大化」や「利己的個人」の仮定などについては、それらの仮定を採用していても必ずしも「そのような世界観」で物事を見ている研究者が知恵を作っているわけではないです。

じゃあ、経済学側に問題はないってこと?

ここまでの話だと「経済学側に足りないのは実態をちゃと伝えていないアウトリーチ不足だけだ」というかんじにもなりそうですが(だって経済学は自由に描ける学問なわけでしょ、そして相対数は少なくても次世代の経済っぽい話も扱っているわけでしょとなりそうですが)、アウトリーチも含めて経済学にも足りないところはあると思っています。

・まずはアウトリーチ。特に入門レベルの経済学の教科書において「利益最大化」「利己的な個人」の仮定などを注釈をあまり入れずに紹介しているところは問題かなと思います。これだと経済学の手法を誤解される気がします。とはいえば、例えばRubinsein先生のミクロ経済学の教科書では(まぁ中級レベルではあるけれど)、利益最大化だけではない企業のモデル化も数多く紹介されていてそのような教科書もないわけではないです。ちなみにその教科書では「市場がないジャングルの経済モデル」なんてものも扱われていたりします(ほら、とっても自由でしょ!笑)。

・分野によっては「利益最大化」などの仮定をいじるならよっぽどの理由がないと許されないとされているようにも見受けられます(ただし実態はそこまで分かりません)。つまり、昔の風習が必要以上に残っているんじゃないかなという気はします(技術的に可能ではあってもすごく自由にモデルを描くことが許されているというわけでもないです)。

・また、そもそも「利益最大化」などの仮定のぜひについて集中的に議論する機会が多いわけではなかったりします。経済学の枠組みについての議論は日常的には経済学の内部で行われてはいない印象です。これについては経済学の内部ではあまり議論が活発になるインセンティブがないので構造的にどうにか対処すると良いかなと思っています。

まとめ

ということで、経済学は手法的には、「循環」「共感」などについても当たり前のように扱えますし、例えば「腐っていくお金」のような面白いコンセプトについても分析の射程範囲です。また、「次世代の経済」に広義の意味で関連するような研究の蓄積も相対的には少ないですが絶対数としてはかなりあります。

とはいえ、入門の教科書の書き方がたしかに経済学のスタイルについて誤解を生みそうなものが多いですし、アウトリーチ以外の問題として、「利益最大化」などの仮定について丁寧に議論する機会が経済学の中に多いわけではないので、このへんは経済学に発展の余地があるように思います。

この記事で一番伝えたかったことは(例を多く出すことでその目標を達成しようとしましたが)、経済学は「主に数学を用いて社会について自由にクリアに考える」ってかんじの学問であり、思ったよりも自由ってことです。「既存の経済学(現在の経済学)」と「次世代の経済」について少しでも新しい視点を提供できたなら嬉しいです。

Fin.