反例って反例になっていればいいってわけではないんだね



大学院1年生の時に受けていたミクロ経済学の授業では、「次の命題を証明するか間違っていることを(反例を示して)示しなさい」というタイプの問題が多く出題された。

こういう種類の問題が出た時にはまずは反例を見つけようとすることが個人的には多いけど、僕は反例を見つけるのが割と得意だったし、頭の使い方としても証明するよりも好きだった。あとはなんといっても、反例を見つけたら面倒な証明をすることなく一発でその問題を終えることができるのが宿題の量が多いときには嬉しかった。笑

そんなわけで反例探しが好きになっていた僕は本格的に論文を読むようになってからも論文の主張に対して反例を見つけようとしたりしながら読むことも多くて、しばらく反例を探すのがとても好きな時期が続いた。

ただ、研究っぽいことをすることが多くなってきた最近では「そこまで好きじゃないなぁ。。。。」というかんじになってきた。



というのも、宿題だったら反例が見つかるか見つからないかがすべてであり、反例に良いも悪いもない(貰える点数は変わらない)。



しかし、どうやら研究だとそうはいかないらしい。

例えば僕が専攻している社会的選択理論では公理と呼ばれる条件を色々と考えていくのだが、「例えば4つの公理で不可能性が示せます(この4つの公理を同時に満たすルールは存在しません)」という主張があったときに、反例を発見して主張が間違っていることを発見したとする。

そのときに仮にその反例がすごく極端なものであったら、「元の主張にちょっと修正を加えて極端なケースを排除するようにしたらその反例は成り立たなくなるから、本質的には元の主張で良さそうな気もするなぁ」みたいにかんじたりもする。対してその分野において一般的なルールが反例になっていたら、「極端なケースを排除するような公理を追加して解決するタイプの問題ではなさそうだな」となったりする。同じ主張に対する反例でも価値が異なるわけだ。

また、指導教員に「ーーーーという反例とーーーーーという反例を思いつきました」とある主張に対して(どちらも極端ではない)2つの反例を考えて持っていったときに、「こっちの反例はこういう分野の人に受けが良さそうで、こっちの反例はこういう分野の人に受けが良さそうだね」みたいなコメントを受けて、そういうめんどくさい観点があることも最近知った。

反例にも本質的なものとそうではないものがあるし査読とかまで含めるともっともっと考慮することが多いらしい(ので、最近では反例を1つの見つけても「もっとまともな反例はないかな」とか「こういう種類の反例もないかな」みたいに反例を1つ見つけたらOKみたいなことにはならなくなってきた)。



こういうことに気づくようになると、学部のときとかは例えば授業受けているときに「こういう反例があると思うので、厳密には授業スライドの内容は成り立たなくないですか?」みたいに無邪気に質問して「あーよく気がつきましたね」みたいに言われることが多かったけど(本当にそういう機会が多かったかはあまり記憶が定かではないけど。笑)、

あれは普通に「たしかにそれは反例になっているかもしれないけど証明のアイディア自体はそれでもvalidだよね。その些細なポイントをそこまで厳密に考えなくてもなぁ」といまだったら(or 当時の先生だったら)言いたくなるような指摘だった可能性があるわけだ。「なんでもいいから反例を見つけようとしてみて見つけたらきっと先生の役にも立つから教えてあげよう!」みたいなメンタリティーはさすがに無邪気すぎる。*1

たぶん「主張があっているかどうか」に注目しすぎていて、「この証明のアイディアは何か」とか「どういう構造が発見されたことが大事なのか」みたいなことを意識することを知らなかったのだと思う。



先ほど自分が(大学院生になってから)書いたブログを読み返していたら、「教科書ではこの主張に対する反例としてこういうものを挙げているけど、僕が考えたこの反例の方が分かりやすくないかな?」みたいなことが嬉々として書いてあった。

それを見返したときに、「その反例はたしかにより簡単だけど、より適切とは言い難いな。」という風に反例についての感覚がこの短期間でだいぶ変わっていたことに気づいたので、成長を実感した記録としてこの記事を書いてみました。反例も奥が深い。

Fin.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:ただしこのようなメンタリティーを当時持つこと自体は学習に役立ったと思っているので、そのようなメンタリティーを持ち続けるのが問題ということ。