*この記事は社会的選択理論の知識を前提とします。「Population Ethicsの紹介」「社会を構成する個人の集合について」あたりを事前に読んで頂けるとスムーズです(特に最初のやつ)。
考える対象は何?
社会的選択理論におけるよくある枠組みとして、
社会を構成する個人の集合がで固定されているとして(一般には人で固定)、例えばというベクトルは「さんの嬉しさがで、さんの嬉しさがで、さんの嬉しさがである社会状態」と解釈することにした上で、上のSocial Ordering*1を考えたりします(一般的には上のSocial Ordering)。
この場合、は何かしらの自然数で固定されており、次元が違うベクトル同士の比較は行われません。
しかし、状況によっては社会を構成する個人の集合が変わってくる場合の規範的評価も考えたいことがあります。つまり「政策を取ると人口が増えて全員がそこそこに嬉しい(幸せな)社会が実現すると考えられ、政策を取ると人口は少ないが全員がかなり嬉しい(幸せな)な社会が実現すると考えられる。このとき政策とのどちらが社会的に望ましいか」などを考えたくなる場面もあるはずです。
そのため上の枠組みを拡張して、上のSocial Orderingではなく、上のSocial Orderingを考えることにします。
このように、という集合を考えることで次元が異なるベクトル同士(社会を構成する個人の集合が異なる社会状態同士)の比較もすることになります。
また、この枠組み(社会を構成する個人の集合が可変になっている枠組み)を採用する際の慣習として、Utility(嬉しさ)の水準としてのに特別な意味を持たせており、はNeutral Lifeを表します。つまり、(社会的にではなく)個人にとってその人生を経験するのとしないのが同等になるような人生を通しての幸福度を表します。細かい解釈は哲学的になってしまうので触れませんが、正の効用(で表される人生)であれば「生きるのがマシ」であり負の効用であれば「生きない方がマシ」となるわけです。に特別な意味を持たせていることからも分かるようにUtilityについては「選好の表現」以上の情報を持たせています。*2
今回紹介する研究では上のSocial Ordeingについて考えていきます。
言葉による説明
個人の集合が固定されている枠組みにおいて有名なSocial Orderingとして、合計による比較があります(Utilitarianism)。これは例えばとの比較であれば合計がより大きい前者の方が厳密に望ましいと判断します。
今回の枠組みにおいてもこれと同じようにするのはどうでしょうか?(次元が異なっても合計で比較するようなSocial Ordering=例えばとの比較なども合計による比較で行うSocial Orderingを考えてみるのはどうでしょうか?)
そのようなSocial Orderingについて気になる点として、例えばある程度の人数全員がめちゃくちゃ幸福な社会があるとして(1億人が高い効用水準の社会状態があるとして)、その社会状態よりも、全員がすごく小さい正の効用水準であるが人数が膨大な社会を考えるとこちらの社会状態の方が厳密に望ましいと判断されることになります(合計で考える場合にはであっても効用水準も積み重ねていくと無限大に向かっていく)。これは規範的な判断として問題がありそうです。
そこで提案されているものとして例えばのようにして、基本的には合計を取るがそれぞれの個人について足し合わせるときに正の定数を引くものがあります。つまりとの比較であれば単純な合計であるとの比較ではなく、とで比較することになります。このようにすると先ほどの問題点はクリアされます(このようにするとの個人をいくら追加していっても、積み重ねるごとにが引かれる分があるので例えば1つのに勝てない)。
しかし、このように個人ごとに正の定数を引くことを考えた場合に出てくる新たな問題として、例えばある効用ベクトルを考えたときに、そこに新たにという全てが負のベクトルを追加したものであるとという全てが正のベクトルを追加したものであるを考えたときに、負のベクトルを追加した方が望ましいと判断してしまうことがあります(個人ごとにを引く場合だと今回の数値例でそうなってしまいますし、でない場合にも同じような例を作ることができます)。
全てが負のベクトルを追加する方が全ての正のベクトルを追加するよりも望ましいというのはの解釈を思い出すと、規範的な判断として問題がありそうです(本当にこれを問題とすべきかは意見が分かれると思いますが)。
合計で比較するのだと規範的に問題がありそうなので、工夫をして個人ごとに定数を引くようにしましたらその問題は回避できたが、次はまた違う規範的に問題がありそうなことが起きてしまいました。
今回の紹介する不可能性定理では、「基本的には合計で比べるようなSocial Ordering」を考える限りでは上の2つの問題点を同時に回避することはできないことを示します。
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「基本的には合計で比べるようなSocial Ordering」と書きましたが、上で見た全部を単純に合計で比較するSocial Orderingも、個人ごとに定数で引くSocial Orderingのどちらも(前者の場合には当たり前ですが)、任意のを固定しての範囲をに制限してあげると合計で比較することになることに注目してください。
例えばに基づいて比較するとして、次元が違うベクトルを考えるとそれらは必ずしも合計による比較と一致しませんが、次元が同じ2つのベクトルを比べる場合にはの部分は次元が同じなら大小比較においては意味を持たないので、合計による比較と一致します。
同じ次元のベクトルの比較については合計による比較を採用するようなSocial Orderingに注目して考えていきます。Social Orderingが任意のについて範囲をに制限したときに合計による比較と一致する比較を行なっているとき、そのSocial Orderingはutilitarian same-number suborderingsを持つといいます。
今回紹介する研究は、utilitarian same-number suborderingsを持つSocial Orderingは2つの規範的な問題点を同時に避けることはできないことを示します。
公理として定式化
先ほど「これは規範的に問題がありそうです」という性質を2つあげました。
最初の問題ある性質は、
「どんなに大きい正の効用水準でも、それよりも小さい正の効用水準(それは正であるならどれほど小さくても良い)を積み重ねるとそれには負けてしまう」という性質です。
もう1つの問題ある性質は、
「ある効用ベクトルに、負の効用ベクトルを追加した方が正の効用ベクトルを追加した方が望ましいことがある」という性質です。
前者の性質(問題)はRepugnant Conclusionと呼ばれ、後者の性質(問題)はSadistic Conclusionと呼ばれます(ちなみにRepugnantは"嫌な"とか"不快な”という意味らしいです)。
これらの性質は避けたいものであり、公理としてこれらが起きないという条件を定式化します。
表記として、、、とします。また、で全てがからなる次元のベクトルを表します。
Axiom1(Avoidance of the Repugnant Conclusion)
ある、ある、あるが存在して、全てのについてが成り立つ。
Axiom2(Avoidance of the Sadistic Conclusion)
任意の、任意の、任意のについて、が成り立つ。
とりあえずAxiom2の方は分かりやすいかなと思います。「正のベクトルよりも負のベクトルを追加した方が望ましいということがどんな時にも起こらない」ということを表現したいので、このようになります。
Axiom1については、「ある人数とある効用水準が存在して、それよりも小さいあるを考えたときに、そのをどんなに積み上げたところで(どんなを考えたところで)、効用水準には及ばない」ことを示しています。「どんなに積み重ねてもダメですよ」というのが1つでも成り立っていたらRepugnant ConclusionはAvoidされたとします。
不可能性定理の主張
おさらいをすると、
Repugnant Conclusionは、どんな大きな正の数とどんな小さな正の数を考えても積み重ねれば小さい方が社会的に望ましくなってしまうことを指しており、それをAvoidする公理として公理1を考えました。
Sadistic Conclusionは、負のベクトルを追加した方が正のベクトルを追加するよりも望ましいことになってしまうことがあることを指しており、それをAvoidする公理として公理2を考えました。
今回紹介する研究はUtilitarian Same-Number Suborderingsを持つような(公理3を満たすような)Social Orderingは公理1と公理2を同時に満たすことはないと主張します(ただし厳密には公理4という弱い条件も必要)。
公理3(Utilitarian Same-Number Suborderings)
任意のについてを上に制限して作ったSubordering について、 が成り立つ。
公理4(Minimal One-Person Trade-Off)
任意のについて、あるが存在してが成り立つ。
公理4については、人だけからなる社会を考えて、その人の効用水準がどんなに高くても、その社会状態よりも望ましい「2人以上からなる効用ベクトル」が存在すると言っています。これは弱い条件だと思います(だってどんなに高い効用水準を考えたとしても、10人の社会で全員がだけ効用を得る社会なども考えることができるわけで、そりゃそっちの方が望ましいと判断してよという気がします)。
ここまでの準備の下でBBD,2005のThorem5.4の主張を見てみます。
定理:公理1〜4を満たす上のSocial Ordering は存在しない。
つまり、Utilitarian Same-Number Suborderingsを持つようなSocial Orderingを考える限りにおいては公理4という弱い条件を課しておけばRepugnant ConclusionとSadistic Conclusionの両方を避けることはできないわけです。
証明は省略しますが背理法を用います(なお、定義のところで記号を大きく変えているので元の本を読むときには注意してください)。
どのベクトルも合計で比較してしまう/ 基本的には合計で比較するが個人ごとに定数を引く、以外にも公理3を満たすようなSocial Orderingは色々と考えることができまし、それらは次元を固定したときには合計で比較するという美しい形になって魅力的ですが、どう工夫したところでRepugnant ConclusionかSadistic Conclusionを導いてしまうことが分かり、これは悲観的な結果といえます(そしてこれが分かったことはとても重要そうに思えます)。
Fin.*3
参考文献:Blackorby, C., Bossert, W., & Donaldson, D. J. (2005). Population issues in social choice theory, welfare economics, and ethics (No. 39). Cambridge University Press.
*1:Social Ordering:「社会さん」の選好として解釈されるCompletenessとTransitivityを満たすBinary Relation。
*2:個人的には、今回の枠組みにおいてはUtilityはその数値に完全に意味を持つものとして考えておくと分かりやすいかなと思います(情報基礎に関する制約についていえばそれを表す制約がないようなもの)。
*3:なお今回の研究では社会を構成する個人の集合は明示しておらず、これはAnonymityをimplicitに仮定して構造を落としていると考えるのが妥当に思えます。そういう意味では今回のSocial OrderingにはAnonymityも入れた方がいい気がしてきますが、とはいえそれがなくても不可能性が示されるということはAnonymityを入れても不可能なままなのでたしかに入れなくてもいいかなというかんじがします。