意思決定の美しさ

父から教わったことの中でトップレベルで影響を受けたことに「意思決定の美しさ」って考え方がある。これ大事だと思うから、弟が大学生くらいになったときに読めるように書いておこうと思う。

弟も父から勝手に教わればいいとは思うんだけど、僕はこれを「囲碁」を通じて教わったので、囲碁をやらない弟に伝わるようにするには上手く翻訳しないとかなと思う。僕が囲碁を通じて「意思決定の美しさ」という概念を理解した経緯を書いてみる。

ーーーー
俺は囲碁を小2から中1までやっていたけど、あんまり強くなかったし、好きでもなかった。

ただ、大学生くらいになって父から色々な話を聞くようになってくると、どうやら囲碁と経営は似ているってことが分かってきた。また、父の経営における強さと囲碁における強さには似たようなものがありそうだと感じるようになってきた。

そんなことがあって、大学生になってから囲碁を趣味としてまたやるようになった。それによって人生にも良い影響が起きたらいいなとも思っていた。ただ再開したはいいものの、あんまり上達できるイメージが掴めなかった。

そんなある日、「どうやったら囲碁強くなれるかな」と父に相談してみた。

すると意外な言葉が返ってきた。

「石の美しさを意識したら?」

「自分の石の形が美しくなるように石を配置する。相手の石の形が美しくないところを咎める。そういう観点を意識してみたら?」

ーーーー
これを聞いたとき衝撃を受けた。なんでかというと、囲碁はそういうゲームじゃないと思っていたから。

囲碁って2人でやるゲームで、石を交互においていくんだけど、一手一手に意図があって騙したり騙されたりするんだよね。あと最終的な勝ち負けはどれだけ多くの陣地を囲ったかで決まるから、1手1手は最終的に多くの陣地を囲えるように打たれる。

何が言いたいかというと、他のゲームもそうだけど、囲碁ってすごく「考える」ゲーム。相手の意図とか予想しながら意思決定をするゲーム。

だから俺は昔から囲碁をやっているときは、「この手はこの辺に陣地を作るのに役立ちそうだな」とか「こう打ったら相手はこちら側の意図を誤解してくれそうだな。そしたら後々攻めやすいな」とかを考えながら打っていた。そういう戦略的な考えで囲碁を捉えてきた。

囲碁は「戦略的なゲーム」という世界観でずっとやってきていた。

ーーーー
そんなわけで父の答えに混乱した。まぁたしかに「この石の形はいいかんじだな」とかを感じることはたまにあるけど、石の形(配置)が美しいことを重視して囲碁を打つってどういうこと?

だって別に、石の形の美しさを競っているわけでもないし、相手はこっちを騙してやろうとか思って仕掛けてくることもあるのに(というかボードゲームだからそんなの当たり前)、自分が考えるのは「美しさ」なわけ?そんな悠長なこと考えていて大丈夫かよ。

ーーーー
このときの感覚を共有するために、架空のゲームを考えてみよう。3人でやるビデオゲームで、各人が8人からなるチームを率いる。

ルールはサッカーみたいにしよう。3チームが戦うのでゴールは3つ。

まず最初に各人が自身のチームメンバーのうち4人の基本的配置を指定する(そのメンバーが起点となって動く位置をフィールド上で自由に指定する)。そこから試合スタート。そして10分ごとに1人ずつフィールドに出られる人数を増やしていける。つまり開始10分で各チームのプレーヤーは5人となる。開始20分で6人ずつとなる。一度決めたプレーヤーの配置は固定されるとしよう。

そんなゲームを考えた時に、自分のチームのプレーヤーをどう配置するかは、そりゃ戦略的に考えるだろう。「ここに1人配置したらこういう攻め方をできるな」「相手の配置を見るに、相手にはこういう狙いがあるだろうから、それを防ぐために自分はここに1人配置しよう」。

このゲームを「3チーム配置指定フットサル」と呼んだとき、自分はずっと「どう戦略的に配置を決めるか」を意識してこのゲームをやってきたのに、父にアドバイスを求めたら、

「戦略とかじゃなくてプレーヤーの配置が美しくなるかを意識したら?」とアドバイスされたようなかんじだ。

意図の読み合いとかじゃなくて「配置の美しさ」「配置の調和感」を意識して意思決定する。

ーーーー
父からアドバイスをもらったとき、「あぁそういう世界観もあるんだ」と思った。

囲碁においては、騙し合いをすることもあるし、自分の囲っている陣地に相手が入ってきて、石の殺し合いになったりもする。そんな色々な意図がぐちゃぐちゃ混ざり合っている囲碁というゲームにおいて「石の美しさ」を意識する。そこを意識することによる強さってものもたしかにありそう。

この面白い感覚を知ったことで、父が「経営においての自分の仕事は、自分の会社が美しくあれるように支援することだと思っている」と言っていたことの感覚が理解できた。

経営においても、陣地を囲う(利益などの目標を達成する)必要はあるし、色々なプレーヤーの色々な意図に巻き込まれている。そんな状況において、石が美しい形になっていることを意識する(意思決定の流れが美しくなっていることを意識する)。

もちろん、美しさだけに注目していてはダメで、囲碁においても相手が無理に攻めてきたらそれを咎めるために戦ったりすることも重要でそこでは多少形が美しくなくても(囲碁の用語でいうと愚形になっても)相手の石を殺す必要があるし、経営においてもきっと利益を気合で作ることが重要になる場面もあるはず。

つまり、囲碁という(経営という)色々な意図が混ざり合っていたり、時には戦う(競争する)ことが求められるゲームにおいて、「戦略的に意思決定をする」というやり方以外に、「美しく意思決定をする」というやり方がある。それをベースにしながらも、必要なときには愚形になっても戦う打ち方(経営の仕方)がある。

「石の形が美しくなるように意識してみたら?」

このアドバイスによって、囲碁と経営において父に見えている世界が少し見えてきた。

ーーーー
この話を聞いたのは大学3年生くらい。

その後少ししてから、あることを思い出した。それは大学一年生のときに参加したインターン。ある企業の1日インターンで、オフィスで話を聞いたり、グループワーク(仕事の模擬体験)をやったりした。

それに参加したとき、会社説明の時間がつまらなくて俺は全然話を聞かずにスマホをいじっていた。

そしたら隣に座っていた学生から「そういうことするのはよくない!」と怒られてしまったことがある。当時は「つまらないなら仕方なくね」と思っていたけど、なんかちょっとモヤモヤしていた。

それについて、「今ならスマホをいじらないかも」と思った。だってそれは意思決定の流れが美しくないから。

インターンのイベントなんだから会社説明の時間があることは当然だし、それが分かった上で申し込んだのに、その会社説明でスマホをいじるって流れがどう考えても美しくない。誰かが話しているときにスマホをいじるのが常にダメと言っているわけではなくて、今回のケースでは流れが美しくないってこと。

「なぜあの場面でスマホをいじっちゃダメか」の説明として「失礼にあたるから」というのもあるだろうが、個人的には「意思決定の流れが美しくないから」がしっくりくるなと思った。

日常生活において僕はまだ「この意思決定は美しいな」と思えるように行動を選ぶことはできないけど、「この意思決定は短期的な利益はあるかもしれないけど美しくないな」と思う行動を「美しくない」という理由だけで、回避するようにはなってきた。これだけでもかなり大事なことを教わった気がしている。

ーーーー
「意思決定の美しさ」を意識しない勝ち方や生き方もあるだろうけど、美しさを意識することで「いいかんじ」になっていく世界観は個人的に好き。弟の好みには合うかしら?

Fin.