「チベットの英会話教室」の話を聞いて経済学をやっているモチベーションを思い出した話。

Facebookを見ていたら、「チベットで英会話のボランティア講師をしているけど、すごく良い」という投稿が目に入った。

どうやら、チベット仏教の考えを知るための裏技が英会話学校のボランティア講師らしい。ディスカッション形式の授業の講師をすると、生徒の9割くらいが仏僧で、その人たちと色々なテーマで対話することになり、長らく仏教の修行をしている人たちの考え方に直に触れらるということらしい。

テーマの例としては、

・良い人生とは何か?
・嫉妬は時に役に立つか?

などがあるらしい。

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この投稿を見たときにすごく面白い機会だなと思った。そして同時に「たしかに面白そうだけど、自分が注力したいのはこういう類の問い(知恵)ではないよな」と前に感じたことを思い出した。

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きっと、そのボランティアをしたら、「優しさ」とか「思いやり」とかについてすごく考えが深まると思う。これについてはすごく良いと思うし、ある程度は考えを深めたいと自分も思っている。

だけど気になるのは、仏教とかはあまり「社会」については論じていない印象がある。*1例えば「貨幣制度」とか「社会保障」の具体的な設計などについてはそこまで扱っていないと思うし、今回の投稿の英会話教室においても「個人」や「相手」くらいのスコープのテーマが多いように見受けられた。

やはり「社会」というものは複雑だと思う。

経済学をやっていると「よかれ」と思ってやった政策が逆効果に働いた例などもよく聞く。例えば差別を軽減するために作った制度(そしてそれはたしかに差別を軽減しそうだと一見見える制度)が逆に差別を助長させてしまったなどだ。

つまり、「社会」とか「制度」についてちゃんとした知恵を積み重ねておかないと、「優しさ」を発揮したつもりが逆効果になってしまうことなども起きると思う。

「優しさ」とか「共感」についての知恵を蓄積してきた仏教などはすごく有意義だとは思う。だけど、自分が力を入れようと思ったのはそこではなくて、経済学などが扱う「社会」とか「制度」とかそういう領域にどう「優しさ」や「思いやり」の観点を入れ込むかだ。人類全体の「知恵」という観点に立ったときに、そこの知恵ってちよっと足りていない気がするんだよね。



 

最近は目の前の数式に追われることが多くて、そのような大きな視点に立つことは少なくなっていたけれど、今回のFacebookの投稿がきっかけで上のような気持ちを持っていたことを思い出しました。「社会」や「制度」と「優しさ」や「共感」が交わるところに社会科学の知恵を作る。これはやっぱり大事な気がするな〜。

Fin.

*1:入門書がそうであるだけかもしれない、ただし成立した年などを考えると社会科学の知恵などとの接続はあまりしていないのではと推測はできる。