613号室の猫。

*このブログ初めての小説です!なおタイトルの613号室は東大経研のM1が共同で使うそれなりに大きな部屋で、ここが舞台です。

吾輩は猫である。名前はまだない。

どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも大きくて赤い門の端でニャーニャー泣いていたことだけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは大学院生という人間の中でいちばんな悲しき種族であったそうだ。

夜になってそろそろ寝ようかというところで、この大学院生という人間に抱え上げられた。「ちょうど院生室に誰もいなくて寂しかったんだ」などと意味の分からぬことを言い、近くの建物の6階までエレベーターに乗せられた。少し歩いて角にある613と書かれている部屋の前までくると、部屋の中から今にも消えそうなため息が聞こえてきた。「あれ、誰かいるみたいだなぁ」と呟きドアを開けると、そこにはコーヒーを片手にウンウンと悩んでいるこれまた大学院生と呼ばれる人間が座っていた。「あ、来てたんだ。てっきり今夜は一人だと思ったよ」と吾輩を連れてきた大学院生が声をかけると、「まぁ明日が宿題の提出だからね、あとでエナジードリンクでも一緒に買いに行こう」とため息をついていた大学院生が辛そうにしかし楽しそうに答える。

ここでやっと、吾輩の存在に気づいたようで、「猫?拾ってきたの?」と間の抜けた声で聞いてきた。「そうなんだ。寂しくなっちゃって。ずっと置いておくつもりはないんだけどね」。すぐに放り出すつもりなら吾輩をこんな辛気臭いところに連れてきてくれるなと思ったが、この2人の人間は「まぁ実際いまの状況は猫の手を借りたいくらいだもんねぇ、、、ははは」と言って半分冗談のような半分本気のような顔で笑い合った。吾輩は手など貸すつもりは毛頭なく、その日は眠かったので大学院生の腕からそっと降りると、彼らから少し離れた机まで歩いていき丸くなった。「あ、降りちゃった」とつぶやくと、2人は「まぁ明日の朝にでも外に返しにいけばいいか」と意見がまとまったようで、まるで吾輩なんていなかったかのようにホワイトボードと呼ばれる大きい板の前でipadと呼ばれる機械を見ながら議論を始めていた。

その夜のことはあまり覚えていない。かすかに「証明の方針がやっと立った、、」だとか「prove or disproveなんて形式の問題は勘弁してくれよ、、、、」などど聞こえてきた気がするが、吾輩にとってそんなことはどうでも良く、朝日が気持ちよく差し込むまでスヤスヤと寝っていた。

目が覚めると、どうも今夜は不思議なところで寝たもんだと思い、外に出ようとあたりを見渡したが、昨夜のコーヒーの匂いはかすかに残ってはいるが大学院生は誰もいなかった。あの人間たちはどこに行ったのだろうか、ちょうどそのときドアが開き彼らが談笑しながら戻ってきた。手には気味の悪い色の缶があり、吾輩はこのとき初めてエナジードリンクなるものを見た。こんなものが美味しいのだろうか、ミルクの方が美味しいに決まっている。彼らは、これがその後の吾輩の運命を狂わせたわけであるが、何やらエナジードリンクの他に小さなお菓子のようなものも買ってきたようで、「これなんだけど、喜ぶと思ってすぐそこのナチュローで買ったんだ」と小さな食べ物を差し出してきた。

吾輩は寝起きでさして食欲もなかったが、せっかくの土産なので、仕方なくそのよく分からないお菓子のようなものを口にした。するとどうだろう。噂には聞いてはいたがさすがナチュローだ、一味違う。これは美味いと思っていると、昨日の大学院生が改まった口調で話かけてくる。「もしよかったらなんだけど、、、、今学期のコアが終わるまででいいからこの部屋にいてくれないかなぁ。猫がいるだけでこんなにも院生室が癒されるとは思わなくて」と懇願してくる。吾輩にはコア*1と呼ばれるものが、もっともこの単語はこれから毎日聞くことになるが、そのときは何か分からなかったのだが、どうやらこの部屋は日当たりも悪くないようで少しの間であればさして損はあるまいと思い、留まってやることにした。

こうして吾輩はこの部屋の住民になったわけである。




 
さて、あれから二月ほど経ったが、
どうにも大学院生という人間たちは様子がおかしい。

ある日、大学院生の1人がホワイトボードの前でこうまくしたてていた。「おっけー、まずはこの世にはリンゴとバナナしか財がないとしよう。つまり2財のケースだね」といい「l=2:apple & banana」と細い字をホワイトボードに書き加えた。他のものたちは静かに彼の話を聞き、それはもっともだという顔で頷いている。驚くべきことである。お前たちはこの前嬉しそうにエナジードリンクを買ってきていたではないか。そこのお前なんかお昼にはいつもサラダを買ってきて美味しそうに食べているではないか。そこのお前は最近は本郷ナンチャラという駅にあるおにぎり屋さんにはまっているとさっき言っていたではないか。どう考えたら、世の中リンゴとバナナだけなんてことに納得できるのだろうか。経済学という学問ではこれが普通のことなのか呆れてものもいえないが、これに気づいかないままだとさすがに不憫であるので彼らにヒントをくれてやろうと、ゴロゴロと喉をならしてホワイトボードを睨みつけると首を2回ばかり横にふってみせた。

彼らはのんきにも「あ、起きたんだ、可愛いなぁ」などと声をかけてくる。のんきなことを言っている場合ではなかろうと思っていると、彼らの中では利口そうな先ほどの男が「あ!そうだ!せっかくだから書き換えてみよう」と言い出した。そうだやっと気づいたか。しかし期待した吾輩がバカであった。「appleとbananaではなくて、猫ちゃんが好きそうな、そうだな、魚と牛乳に例を変えよう」と言い出す。それでは何も変わらないではないかと思ったが、これ以上はかまってられないので、日が当たらぬ机の下にヒョイと移動してもう一眠りすることにした。

そのまま気持ちよく眠っていたのだが、お昼がすぎたくらいだろうか。喧嘩をするような声が聞こえてきた。「あり得ない!」と誰かが絶叫する。何事かと思ったら、どうやら勉強は一度中断して、その日きていた5人ほどの大学院生でお昼を食べているようであった。飯の取り合いでも発生したのだろうか。

どうやら一人の男が他の連中から責められているようである。ミクロ経済学と呼ばれる分野、これは大変やっかいな分野らしい、についてらしい。吾輩が聞いた限りにおいては、この男は学部生と呼ばれる比較的元気な連中からミクロ経済学の教科書を紹介するように頼まれたとのことだった。そして彼は「僕だってずいぶん悩んだわけなんだ」と言っていたが、結局は「林ミクロ」とかいう本を紹介したと言っていた。どうやらこれが不味かったらしい。非常に不味かったらしい。「たしかにあれはいい本だよ。でも、、、、、初学者に勧めるなんて正気の沙汰ではない。まずはミクロ経済学の力などが妥当なところだろう」と責められている。吾輩からすると、リンゴとバナナしかどうせないのだから、もうどうでも良いではないかと思ったが、不服そうな顔をしていた彼は反撃を始めた。

「君たちは林ミクロの良さが何も分かっていない。僕は院試の前に10回は読み込んだんだ」と言い、調子づいた彼の独演会が始まった。「まずそもそも効用関数というのはだね、、、。この中にも誤解している人がいるかもしれないからそこから丁寧に話させてもらうとだね、、、、」。まるで聞いてられなかった。吾輩はいつもより丁寧に丁寧に毛繕いをしていたが彼の話は終わらず、あんなに白かったホワイトボードは数式と呼ばれる呪文で真っ黒になってしまった。調子づいてきたのは彼だけではなく、他のものたちもツッコミを入れるようになってきて、あるものなんか昼ご飯に買ってきたインドカレーが冷めるのも気にせず、「効用関数」について意見を述べていた。

ただまぁ実のことをいうと、最近こっそりと、少しだけ経済学に興味を持った吾輩は、さきほど独演会をしていた男の机の上にあった林ミクロの序章だけ読んだことがある。ほんの少しだけである。すると不思議なもので、「いま話始めた彼のお昼のカレー、冷めたカレーと冷める前のカレーは同じ財と考えて良いのだろうか」などどまるで大学院生のようなことを吾輩も思い出してしまったのである。とはいえさして興味はないので議論に加わることはせず、彼らが何時間もなんとも嬉しそうに話す様子を薄目をあけて聞いていた。

大学院生とはなんとも不思議で幸せな生き物である。

Fin.

*1:コアとは、M1が苦しめられる必修の授業群のことです。